映画『靖国』特設サイト

 

 


発言・意見

【発言録】映画『靖国』緊急記者会見(2008.4.10)
李纓(リ・イン)監督、田原総一朗、野中章弘、石坂啓、是枝裕和、斎藤貴男、坂本衛、篠田博之、鈴木邦男、ジャン・ユンカーマン、豊田直巳、服部孝章、原寿雄、広河隆一、筑紫哲也、土井敏邦
発言・意見・メッセージ
四方田犬彦、森達也、是枝裕和、李纓監督


2008.3.19, 3.25, 4.1映画演劇労働組合連合会、3.31日本映画監督協会、4.1日本マスコミ文化情報労組会議、4.1全国労働組合総連合、4.1, 4.23全国労働組合総連合・映画演劇労働組合連合会、4.2フォーラム平和・人権・環境、4.2福田首相、4.3日本ペンクラブ、4.3日本民間放送連盟、4.3新聞協会、4.4日本弁護士連合会、4.4平和遺族会全国連絡会、4.4日本ジャーナリスト会議 ‥‥


経緯と関連記事
新聞の社説

 

Articles in English
http://www.eigayasukuni.net/e/

 


■関連記事・資料■


映画『靖国』をめぐる新聞の社説


当初予定された映画館が上映中止に追い込まれるなか、この問題は新聞各社の社説でとりあげられた。
すでに各社のサイトでは読めなくなっているものが多いので、ひろえた範囲でまとめておきます。
なおそれぞれの社説は、各新聞社に帰属します。(2008.5.22)


朝日新聞 社説 2008.3.30 映画「靖国」―上映中止は防がねば
朝日新聞 社説 2008.4.2 「靖国」 上映中止―表現の自由が危うい
読売新聞 社説 2008.4.2 「靖国」上映中止 「表現の自由」を守らねば
毎日新聞 社説 2008.4.2 「靖国」中止 断じて看過してはならない
産経新聞【主張】 2008.4.2 「靖国」上映中止 論議あるからこそ見たい
東京新聞・中日新聞 2008.4.2 『靖国』上映中止 自主規制の過ぎる怖さ
神奈川新聞社 2008.4.2 「靖国」上映中止 文化と民主主義の危機だ
北海道新聞 社説 2008.4.2 映画「靖国」 上映こそ政治家の責務
新潟日報 社説 2008.4.2 「靖国」 上映中止 表現の自由が脅かされた
京都新聞 社説 2008.4.2 「靖国」上映中止  見る機会を保障せねば
高知新聞 社説 2008.4.2 【「靖国」上映中止】表現の自由が危ない
産経新聞【産経抄】 2008.4.3 産経抄
信濃毎日新聞社 社説 2008.4.3 映画「靖国」 上映復活に努めたい
神戸新聞 社説 2008.4.3 「靖国」上映中止/民主主義の危機に通じる
西日本新聞 社説 2008.4.3 「表現の自由」守る勇気を 「靖国」上映中止
南日本新聞 社説 2008.4.3 [「靖国」中止]委縮の広がりを憂える
日本経済新聞 社説 2008.4.4 封じてならぬ 「靖国」 上映
愛媛新聞 コラム社説 2008.4.4 「靖国」上映中止 日本の「自由」が問われている
岩手日報 論説 2008.4.5 「靖国」 上映中止 表現の自由守り抜こう
山陽新聞 社説 2008.4.5 「靖国」上映中止 看過できない公開の封印
中国新聞 社説 2008.4.6 「靖国」上映へ 不当な圧力拒む社会に
沖縄タイムズ 社説 2008.4.6 [「靖国」上映]試される社会の成熟度
The Japan Times Editorial: Sunday, April 6, 2008 Freedom-of-expression gantlet
琉球新報 社説 2008.4.11 映画「靖国」 民主主義を脅かす言論封殺
東奥日報 社説 2008.4.13 息苦しい世にしたくない/「靖国」上映中止
産経新聞【主張】 2008.4.17 【主張】映画「靖国」 助成金の適否を検証せよ
河北新報 社説 2008.4.17 表現の自由/研ぎ澄ませたい自戒の感度
朝日新聞 2008.5.3 日本国憲法―現実を変える手段として
毎日新聞 社説 2008.5.3 憲法記念日 「ことなかれ」に決別を 生存権の侵害が進んでいる
神奈川新聞 2008.5.3 憲法記念日 人権擁護し理想の追求を
東奥日報 社説 2008.5.3 “軽視の風潮”を憂慮する/憲法施行から61年
新潟日報 社説 2008.5.3 憲法記念日に考える 自由に物が言えますか
中国新聞 社説 2008.5.3 憲法記念日 じっくり論議深めたい
琉球新報 社説 2008.5.3 憲法記念日 今こそ理念に輝きを
信濃毎日新聞社 社説 2008.5.4 憲法記念日(下) 表現の自由の曲がり角


朝日新聞 社説 http://www.asahi.com/paper/editorial.html

朝日新聞 社説 2008年03月30日

映画「靖国」―上映中止は防がねば

 日本在住の中国人監督が撮影したドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」に上映中止の動きが出ている。

 公開は4月半ばから東京4カ所と大阪1カ所で予定していた。ところが、都内の映画館の一つが「色々と話題になっている。問題が起きればビルの他のテナントへの影響や迷惑もある」として中止を決めた。残りの映画館の中には抗議や嫌がらせを受けたところもあるという。

 この映画は、「反日」との批判を受けたことなどから国会議員向けに異例の試写会が開かれた。一部の議員からは、この映画に公的な助成金を出したことへの疑問が出ている。

 映画館からすれば、大勢で抗議に押しかけられたり、嫌がらせをされたりするのはたまらないということだろう。観客にも迷惑がかかるかもしれない。そうした気持ちはわからないわけではない。

 しかし、映画館が次々に上映をやめたら、どういうことになるのか。

 映画は表現や言論の手段の一つであり、その自由は保障されねばならない。映画館もその一翼を担う社会的存在だ。評価が分かれる映画だからこそ、多くの人に見る機会を与えることが大切だ。

 上映をめぐって嫌がらせなどの卑劣な行為があれば、警察に相談することもできる。ここは苦しくとも、踏みとどまる勇気を各映画館に求めたい。

 それにしても、こんな事態になった背景として見逃せないのは、国会議員の動きである。経緯を振り返ってみよう。

 この映画では、終戦記念日の靖国神社の風景と、神社の境内で刀剣をつくっていたという刀匠が交互に登場する。

 一部の週刊誌などが「反日映画」と批判し、公的な助成金が出ていることに疑問を投げかけた。

 その後、自民党若手議員らでつくる「伝統と創造の会」の稲田朋美会長側が文化庁に問い合わせたのをきっかけに、全国会議員向けの試写会が開かれた。

 映画を見た議員の反応は様々だった。稲田氏は「靖国神社が、侵略戦争に国民を駆り立てる装置だったというイデオロギー的メッセージを感じた」と語った。一方では、「自虐的な歴史観に観客を無理やり引っ張り込むものではなかった」という自民党議員もいた。

 稲田氏らが問題にしているのは、助成金を出すのにふさわしい作品かどうかだという。そんな議論はあっていいが、もしこうした動きが上映の障害に結びついたとしたら見過ごすことはできない。

 幸い、稲田氏は「表現の自由や上映を制限する意図はまったくない」と述べている。そうだとしたら、一部の人たちの嫌がらせによって上映中止になるのは決して本意ではないだろう。

 そこで提案がある。映画館に圧力をかけることのないよう呼びかける一方、上映をやめないように映画館を支えるのだ。それは、主義主張を超えた「選良」にふさわしい行為に違いない。


朝日新聞 社説 http://www.asahi.com/paper/editorial.html

朝日新聞 社説 2008年4月2日

「靖国」 上映中止―表現の自由が危うい

 これは言論や表現の自由にとって極めて深刻な事態である。

 中国人監督によるドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」の今月公開を予定していた東京と大阪の五つの映画館が、すべて上映中止を決めた。来月以降の上映を準備しているところも数カ所あるが、今回の動きが足を引っ張ることにもなりかねない。

 右翼団体の街宣車による抗議や嫌がらせの電話など具体的な圧力を受けたことを明らかにしている映画館は一つしかない。残りは「お客様に万が一のことがあってはいけない」などというのが上映をやめた理由だ。

 トラブルに巻き込まれたくないという気持ちはわからないわけではない。しかし、様々な意見がある映画だからこそ、上映してもらいたかった。

 すぐに思い起こすのは、右翼団体からの妨害を恐れて、日教組の集会への会場貸し出しをキャンセルしたプリンスホテルである。

 客や周辺への迷惑を理由に、映画の上映や集会の開催を断るようになれば、言論や表現の自由は狭まり、縮む。結果として、理不尽な妨害や嫌がらせに屈してしまうことになる。

 自由にものが言えない。自由な表現活動ができない。それがどれほど息苦しく不健全な社会かは、ほんの60年余り前まで嫌と言うほど経験している。

 言論や表現の自由は、民主主義社会を支える基盤である。国民だれもが多様な意見や主張を自由に知ることができ、議論できることで、よりよい社会にするための力が生まれる。

 しかし、そうした自由は黙っていても手にできるほど甘くはない。いつの時代にも暴力で自由を侵そうとする勢力がいる。そんな圧迫は一つ一つはねのけていかなければならない。

 言論や表現の自由を守るうえで、警察の役割も大きい。嫌がらせなどは厳しく取り締まるべきだ。

 五つの映画館が上映中止に追い込まれた背景には、国会議員らの動きがある。自民党の稲田朋美衆院議員らが公的な助成金が出ていることに疑問を呈したのをきっかけに、国会議員向けの異例の試写会が開かれた。

 稲田氏は「私たちの行動が表現の自由に対する制限でないことを明らかにするためにも、上映を中止していただきたくない」との談話を出した。それが本気ならば、上映を広く呼びかけて支えるなど具体的な行動を起こしたらどうか。

 政府や各政党も国会の議論などを通じて、今回の事態にきちんと向き合ってほしい。私たちの社会の根幹にかかわる問題である。

 いま上映を準備している映画館はぜひ踏ん張ってもらいたい。新たに名乗りを上げる映画館にも期待したい。それを社会全体で支えていきたい。


読売新聞 社説・コラム http://www.yomiuri.co.jp/editorial/

読売新聞 社説 2008年4月2日付

「靖国」上映中止 「表現の自由」を守らねば

 憲法が保障する「表現の自由」及び「言論の自由」は、民主主義社会の根幹をなすものだ。どのような政治的なメッセージが含まれているにせよ、左右を問わず最大限に尊重されなければならない

 直接抗議を受けたわけではないが、混乱を避けるために中止を決めた映画館もある。

 映画「靖国」は、長年日本で生活する中国人の李纓(りいん)監督が、10年間にわたって靖国神社の姿を様々な角度から描いた作品だ。先月の香港国際映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞を受賞するなど海外でも注目を集めている。

 軍服姿で参拝する老人や、合祀(ごうし)取り下げを訴える台湾人の遺族、境内で開かれた戦後60周年の記念式典に青年が乱入する場面などが取り上げられている。

 靖国神社のご神体が、神剣と神鏡であることから、日本人の心の拠(よ)り所として日本刀にも焦点を当てている。

 日本兵が日本刀で中国人を斬首(ざんしゅ)しようとしている写真なども映し出される。日本の研究者が中国側が宣伝用に準備した「ニセ写真」と指摘しているものだ。

 その映画に、公的な助成金が出ていることについて、自民党の稲田朋美衆院議員ら一部の国会議員が疑問を提示している。

 しかし、公的助成が妥当か否かの問題と、映画の上映とは、全く別問題である。

 稲田議員も、「私たちの行動が表現の自由に対する制限でないことを明らかにするためにも、上映を中止していただきたくない」としている。

 かつて、ジャーナリストの櫻井よしこさんの講演が、「慰安婦」についての発言を問題視する団体の要求で中止になった。

 こうした言論や表現の自由への封殺を繰り返してはならない。

 来月以降には、北海道から沖縄まで全国13の映画館で、この映画の上映が予定されている。

 映画館側は、不測の事態が起きぬように、警察とも緊密に連絡をとって対処してもらいたい。

(2008年4月2日01時30分読売新聞)


毎日新聞 社説 http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/

毎日新聞 2008年4月2日 東京朝刊

社説:「靖国」中止 断じて看過してはならない

 中国人監督によるドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」の上映が全面的に中止になった。予定していた計5館が嫌がらせや妨害が起きることを懸念し、取りやめたためだ。

 黙過できない。言論、表現の自由が揺らぐ。そういう事態と受け止めなければならない。

 今年初め、日本教職員組合の教研集会の全体会場、宿所だった東京のグランドプリンスホテル新高輪が、一転して使用を断った。右翼の街宣や威圧行動で顧客や周辺の住民、受験生らに迷惑がかかるというのが理由だった。裁判所は使用をさせるよう命じたが、ホテル側はこの司法決定にも従わないという空前の異常事態になった。

 私たちはこれについて「今後前例として重くのしかかるおそれがある」と指摘した。「靖国」中止で「おそれ」は現実になったといわざるをえない。

 作品は、10年間にわたり終戦記念日の靖国神社の光景などを記録したもので、一部のメディアなどが「反日的だ」とし、文化庁所管である芸術文化振興の助成金を受けていることを批判した。自民党の国会議員からも助成を疑問視する声が上がり、3月には全国会議員を対象にした試写会が開かれた経緯がある。

 萎縮(いしゅく)の連鎖を断ち切るには、再度上映を決めるか、別会場ででも公開の場を確保する必要がある。安全を名目にした「回避」は日教組を拒絶したホテルの場合と同様に、わが意に沿わぬ言論や表現を封殺しようとしている勢力、団体をつけ上がらせるだけであり、各地にドミノ式に同じ事例が続発することになろう。

 一方、警察当局にも言いたい。会場側が不安を抱く背景に、こうした問題で果たして警察が守りきってくれるのかという不信感があるのも事実だ。発表や集会を威圧と嫌がらせで妨害しようとする者たちに対して、きちんとした取り締まりをしてきたか。その疑念をぬぐうことも不可欠だ。

 また、全国会議員が対象という異例な試写会は、どういう思慮で行われたのだろう。映画の内容をどう評価し、どう批判するのも自由だ。しかし、国会議員が公にそろって見るなど、それ自体が無形の圧力になることは容易に想像がつくはずだ。それが狙いだったのかと勘繰りたくもなるが、権力を持つ公的機関の人々はその言動が、意図するとしないとにかかわらず、圧力となることを肝に銘じ、慎重さを忘れてはならない。

 逆に、今回のように「後難」を恐れて発表の場を封じてしまうような場合、言論の府の議員たちこそが信条や立場を超えて横やりを排撃し、むしろ上映促進を図って当然ではないか。

 事態を放置し、沈黙したまま過ごしてはならない。将来「あの時以来」と悔悟の言葉で想起される春になってはならない。

毎日新聞 2008年4月2日 東京朝刊


産経ニュース コラム・オピニオン http://sankei.jp.msn.com/column/column.htm

産経新聞 04/02 06:24更新

【主張】「靖国」上映中止 論議あるからこそ見たい

 靖国神社を題材にした中国人監督のドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」が東京と大阪の映画館で上映中止になった。抗議電話などがあり、客やテナントに迷惑をかけられないという。残念だ。

 この映画は、靖国神社の参拝風景や神社に納める「靖国刀」をつくる刀匠の姿などを記録した作品である。文化庁が750万円の助成金を出していたため、自民党議連「伝統と創造の会」(会長・稲田朋美衆院議員)の要請で試写会が開かれた経緯がある。

 そこで、助成に必要な政治的中立性などをめぐって疑問点が指摘され、今月の封切り前から話題を呼んでいた。映画を見て、評価する人もいれば、批判する人もいるだろう。上映中止により、その機会が失われたことになる。

 実際に、公的機関などから上映中止の圧力がかかったり、目に見える形での妨害行為があったわけではない。映画館側にも事情があろうが、抗議電話くらいで上映を中止するというのは、あまりにも情けないではないか。

 上映中止をめぐり、配給・宣伝協力会社は「日本社会における言論の自由、表現の自由への危機を感じる」とのコメントを発表し、映画演劇労働組合連合会も「表現の自由が踏みにじられた」などとする抗議声明を出した。憲法の理念をあえて持ち出すほどの問題だろうか。

 映画界には、自民党の議連が試写会を要求したことを問題視する声もある。日本映画監督協会(崔洋一理事長)は「(議連の試写会要求は)上映活動を萎縮(いしゅく)させるとともに、表現者たる映画監督の自由な創作活動を精神的に圧迫している」との声明を発表した。

 しかし、「伝統と創造の会」が試写会を要求したのは、あくまで助成金の適否を検討するためで、税金の使い道を監視しなければならない国会議員として当然の行為である。同協会の批判は的外れといえる。

 試写会に参加した議連関係者によると、この映画の最後の部分で“旧日本軍の蛮行”として中国側が反日宣伝に使っている信憑(しんぴょう)性に乏しい写真などが使われ、政治的中立性が疑われるという。

 不確かな写真を使った記録映画に、国民の税金が使われているとすれば問題である。文化庁には、助成金支出の適否について再検証を求めたい。


東京新聞 社説・コラム http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/
 中日新聞 社説・コラム http://www.chunichi.co.jp/article/column/

東京新聞・中日新聞 2008年4月2日【社説】

『靖国』上映中止 自主規制の過ぎる怖さ

 靖国神社をテーマにしたドキュメンタリー映画の一般公開が中止になった。表現の自由が過度な「自粛」で踏みにじられた格好だ。大事なことを無難で済ます、時代の空気を見過ごしては危うい。

 遺族が参拝する。軍服の人々が行進する。日の丸が振られる。星条旗まで掲げる人がいる。「魂を返せ」という韓国や台湾の遺族もいる。八月十五日の靖国神社の光景である。

 中国人監督が終戦記念日を映像に収め、ドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」を制作した。東京と大阪で公開される予定だったのに、中止となった。その経緯に重大な問題がある。

 映画制作に文化庁所管の独立行政法人が助成金を出しており、これを週刊誌が取り上げた。政治的な宣伝意図を有したものは、助成金の対象にしないと、この法人が定めているからだ。

 そして、保守色の強い自民党の衆院議員が、助成金拠出の妥当性を問い合わせた。だが、法人側は外部の専門委員会が「適正」と判断し支出を決めたと、回答した。

 では、なぜ中止となったのか。ある映画館の経営会社の説明は、こうだ。街宣車が別の映画館に来た。「何で上映するのか」という電話もあった。別の映画館は、商業ビルの店子(たなこ)だったから、「迷惑になる」と心配した。さらに別の映画館では、上映を妨害するような被害が起きない限り、警察が動いてくれないだろうと考え、中止を決めた−という。

 中国人監督だから、内容は反日的だったろうか。映画を見た人によれば、ナレーションもなく、その場の生の音声を拾い、淡々と「特別な一日」を中心に記録したものだったという。

 国会議員向けに試写会も開かれたが、火をつけた議員自身が「上映の是非を問題にしていない」と述べている。上映中止は、日教組の集会で、都内のホテルが街宣活動などを恐れ、使用を拒否したのと、背景は同じではないか。

 自由の首を絞めているのは誰なのか。メディア側に問題はないか。映画の関係者に過剰反応はないか。議員もむろん言論の自由には注意深くあるべきだ。自主規制という無難な道を選ぶ、社会全体が自縄自縛に陥っていないか。そこに危険が露(あら)わに見える。

 権力だけが言論を封じるのではない。国民の自覚が足りないと、戦前のセピア色が急に、生々しい原色を帯び始める。


神奈川新聞社 社説 http://www.kanaloco.jp/editorial/

神奈川新聞社 社説 2008/04/02

「靖国」上映中止
文化と民主主義の危機だ

 靖国神社をテーマにしたドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」の上映が、東京都内では行われないことになった。上映予定だった四館がいずれも中止を決めたためだ。その一つ「銀座シネパトス」(東京都中央区)を運営するヒューマックスシネマ社(新宿区)は「近隣の商業施設に迷惑を掛ける恐れがあるため」と説明しているという。

 嫌がらせや何らかの圧力があったのならば、憂慮すべき事態だ。日本はいつから、そのような圧力がまかり通る社会になってしまったのだろうか。表現の自由の危機、民主主義の危機である。

 最近では、グランドプリンスホテル新高輪(東京都港区)が、日教組の教育研究全国集会をめぐって、裁判所の仮処分を無視して施設使用を拒否したほか、予約していた集会参加者の宿泊を旅館業法に反して拒否した。

 日教組の集会では、批判する右翼の街宣車が集まって会場周辺が騒然とした雰囲気になる。同ホテルは使用拒否を「お客さまの安全安心」のためとした。法と社会的責任を無視してまで何を恐れたのか。このような事例が続けば集会の自由、表現の自由が封殺されると危ぶまれたばかりだった。

 映画「靖国」は、日本在住の中国人、李纓(りいん)監督が、終戦記念日の情景や戦時の映像などを交えて靖国神社の現実を追った映画だ。内容を「反日的」と聞いた一部自民党議員が、文化庁の所管法人から助成金が出ていることを理由に試写を要求。公開前に全国会議員向けの試写会が開かれるという異例の事態となった。日本映画監督協会(崔洋一理事長)は「上映活動を委縮させ、自由な創作活動を精神的に圧迫している」と強く抗議したが、その後も一部の政治団体が、上映中止を求める動きをしていたという。

 今回の事態について、「靖国」の配給・宣伝協力のアルゴ・ピクチャーズ社は「日本社会における言論の自由、表現の自由への危機を感じる」とのコメントを発表した。切実な言葉だ。日本社会は自由にモノも言えない社会になろうとしているのではないか。一部政治家の責任は重大だ。

 自由な社会を維持するためには、すべての市民の毅然(きぜん)とした態度と努力が欠かせない。会場施設や映画館などには、集会の自由、表現の自由の担い手であることを再認識してもらいたい。都内の映画館は、ぜひ勇気と気概を持って上映の名乗りを上げてほしい。そして、そうした担い手を孤立させないよう、主義主張を超え市民の応援の輪をつくることが必要だ。

 映画「靖国」は今年の香港国際映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞を受賞した。ところが、舞台である当の日本の首都では見ることができない。「先進民主主義国」として恥ずべき事態である。


北海道新聞 社説 http://www.hokkaido-np.co.jp/news/editorial/

北海道新聞 2008年4月2日

映画「靖国」 上映こそ政治家の責務

 「表現の自由」は、吹けば飛ぶような軽いものなのか。ここは危機感を持って考えたい。
 今月中旬から公開されるはずだった映画「靖国 YASUKUNI」の上映が見送られる。予定した東京と大阪の映画館すべてが、中止を決めたからだ。
 「抗議活動で近隣の商業施設や客に迷惑がかかる」「他の映画館が中止する中で上映すれば、非難が集中する」というのが、その理由だ。
 一部の映画館には街宣車が押しかけたという。嫌がらせの電話もあったようだ。
 周辺にお構いなしの大音量で身勝手に振る舞う街宣車の行動は、厳しく批判されねばならない。 だが、この状況で公開を中止すれば上映阻止をもくろむ人たちを喜ばせるだけではないか。
 映画館側の対応は、憲法が保障する表現の自由を自ら狭める行為であり、きわめて残念だ。ここは踏ん張って、上映姿勢を貫いてほしかった。
 映画演劇労組連合会はきのう、すべての映画人に上映努力を求める声明を出した。映画が表現や言論の手段でもあることを考えれば当然だ。
 しかしこれは、映画人だけでなく、社会全体でも考えるべき問題だろう。脅しや暴力におびえ自己規制する社会は、健全とはとうてい言えない。
 ここに至った経緯を振り返れば、異例の試写会を開催させた与党国会議員の責任は大きい。
 映画は終戦記念日の靖国神社に参拝する人、抗議する人などの情景や「靖国刀」を作る刀匠の思いを、十九年も日本に住む中国人監督が描いた。今年の香港国際映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞を受賞した。
 一方で、「反日的な映画ではないのか」という声があがっていた。
 製作に政府の公的な助成金が出ていることから、自民党の稲田朋美衆院議員が文化庁に問い合わせた。文化庁が奔走し、先月中旬に国会議員向けの試写会が開かれた。
 国会議員という特定の人を対象に試写会を催し、その目的が、映画の公開前に「公費助成にふさわしいかをみる」という発想は、検閲につながるものではないか。
 助成の是非を論じるにしても、表現の自由を考慮すれば、公開後でいいはずだ。
 これが上映中止につながったのだとしたら、試写会に参画した議員も文化庁も責任を自覚すべきだろう。
 文化庁は、開催した経緯をきちんと説明する必要がある。
稲田議員らは上映中止を「残念だ」と言っている。ならば上映実現に全力を注いではどうか。 国会議員として、民主主義を守る志を、行動で示してほしい

北海道新聞


新潟日報 社説 http://www.niigata-nippo.co.jp/editorial/index.asp

新潟日報 社説 2008.4.2

「靖国」 上映中止 表現の自由が脅かされた

(本文がみつかりませんでした)


京都新聞 社説 http://www.kyoto-np.co.jp/info/syasetsu/

京都新聞 社説 2008年04月02日掲載

「靖国」上映中止  見る機会を保障せねば

 靖国神社をテーマにしたドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」をめぐり、予定していた映画館の上映中止が相次いでいる。
 今春の香港国際映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞を受賞した話題作だ。映画界には上映を訴えたい。同時に、憲法に保障された表現の自由を守るうえからも、不当な圧力から映画上映を守ることが必要だ。
 この映画は日本で活躍する中国人映画監督の李纓(リ・イン)さんが、十年をかけて撮影した。軍刀「靖国刀」を打ち続ける刀匠が戦争や神社に抱く複雑な思いを軸に、さまざまな出来事で構成された映画という。
 李監督は今回の映画を通じ、「なぜ日本と他のアジア諸国の間で戦争に対する認識のギャップが残っているか問いかけたい」「人々がもっとよい形でコミュニケーションできるようにしたい。小泉元首相にも見てほしい」などと話している。
 話がこじれたのは、週刊誌が「反日的内容」と報じたのを読んだ自民党の稲田朋美衆院議員らが、同映画に文科省管轄の団体から助成金がでていることの是非を根拠に、配給会社側に試写会を求めたことからだ。先月行われた試写会を見た稲田議員は「検閲の意図は全くないが、政治的に中立な映画かどうかは若干の疑問を感じた」などと話した。
 一方、上映を予定していた東京の映画館には、上映中止を求める電話がかかったり、周辺で抗議行動があったという。結果的に、今月上映予定だった東京四、大阪一の計五館が「近隣や他の観客に迷惑がかかる」ことなどを理由に上映中止を決めた。
 試写会を見た他の議員や関係者の話でも内容には賛否両論があるようだ。だが、この種の映画ではそれは当然だし、どんな映画でも多かれ少なかれ監督の思想が反映されている。
 まじめにつくられた映画を多くの人が見て、意見をかわすことが一番大切なはずだ。稲田議員も「上映中止は残念だ」と話す力作を、ぜひ上映してほしい。また、政治家の介入は、より慎重であってしかるべきだ。
 事態の推移は、右翼団体による混乱を恐れた東京のホテルが、いったん契約した日本教職員組合へ会場提供を拒否した事例を連想させる。このときもホテル側は「客や周辺に迷惑が及ぶ」ことを理由とした。
 だがこれでは企業の社会的責任は果たせない。警察ともよく相談し、嫌がらせに屈しない姿勢を貫くべきだ。こうした事態に映画界が全体で対抗していく知恵もほしい。
 映画という表現芸術の自由と責任を映画館も担っている。その覚悟を興行側も、観客の側も共有したい。まずは映画を見る機会を、保障することだ。

[京都新聞 2008年04月02日掲載]


高知新聞 http://www.kochinews.co.jp/

高知新聞 社説 2008年04月02日08時32分

【「靖国」上映中止】表現の自由が危ない

 靖国神社を題材にしたドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」の上映を中止する動きが広がっている。先に東京都内の映画館一館が中止したのに続き、都内の三館と大阪市内の一館が十二日に予定していた上映を取りやめたことがわかった。
 東京では二月、日教組の教育研究全国集会の全体集会が、会場となっていたグランドプリンスホテル新高輪の一方的な契約破棄によって中止に追い込まれた。右翼団体による街宣活動の騒音などを理由にし、会場使用を認める裁判所の仮処分さえ無視した。
 「靖国」上映を中止した映画館も、「近隣の商業施設に迷惑を掛ける恐れがある」ことを理由にしている。他県の出来事と見過ごすことはできない。ことは憲法が保障する表現の自由、言論の自由にかかわってくる。
 映画「靖国」は、日本に住む中国人の李纓監督が十年をかけて制作した。軍刀の「靖国刀」を打ち続ける刀匠が戦争や神社に抱く複雑な思いを軸に描いた作品という。
 この映画は文化庁所管の独立行政法人から助成を受けている。映画の制作には資金が必要だ。いい映画づくりを国が支援して、文化の向上に役立てるのはよいことだ。
 しかし、一部の自民党の国会議員が助成を理由に、「政治的に中立かどうか若干の疑問がある」として、事前の試写会を要求。「事前検閲ではないか」という疑問もあったが、一部の議員でなく全議員に案内状を出すことで、異例の試写会が行われた。
 映画にどんな感想を持つかは人それぞれであり、一つの見方に沿って上映が中止されたりしてはならない。法に触れない限り、どんな映画も上映の機会を保障される。内容に対する意見はその後で戦わせればいい。それが言論や表現の自由の大原則だ。
 その原則を「近所に迷惑を掛ける恐れがある」というレベルの理由で脅かすのは賢明ではない。そんな風潮が広がれば、あらゆる自由が狭まる。
 渡海文部科学相は「嫌がらせや何らかの圧力により、結果的に作品発表の機会が失われたことは大変残念。表現の自由や制作者の活動に、何らかの制約が加わらないか危惧(きぐ)している」と述べた。適切なコメントだ。そうならないよう、今後も積極的に文化活動を支援すべきだ。企業や個人も委縮してはならない。


産経ニュース コラム・オピニオン http://sankei.jp.msn.com/column/column.htm

産経新聞 2008年4月3日

【産経抄】2008.4.3 03:18

 いやな風が吹いている。自分たちの主張にあわないものは認めない。こんな圧力に屈して、東京と大阪の映画館が、靖国神社を題材にした中国人監督の「靖国 YASUKUNI」の上映中止を決めたのは、大変残念なことだ。

 ▼上映中止の背景には、「国会議員らの動きがある」と、きのうの朝日新聞の社説はいう。自民党の稲田朋美衆院議員らが、開催を要求した試写会のことを指すらしい。しかし、稲田氏らが検証しようとしたのは、政治的に中立性が疑われる映画に対して、政府出資法人から助成金が出されたことの是非である。

 ▼社説は、稲田氏に上映中止の責任があるかのごとく、上映呼びかけの「具体的な行動」を起こすよう迫っている。筋違いも甚だしいが、この新聞の“お家芸”ともいえる。平成17年1月、当時の中川昭一経産相と安倍晋三自民党幹事長代理が、NHKの番組を改変させたと、1面で報じた記事もそうだった。

 ▼番組は、朝日の元編集委員が主催した「女性国際戦犯法廷」を扱ったものだ。昭和天皇を「強姦(ごうかん)と性奴隷制」の責任で一方的に断罪するなど、偏った内容をNHKが修正するのは当然のことと、小欄は以前にも書いた。

 ▼NHKとの泥仕合の果てに、「政治的圧力」の証拠を示さないまま幕を引き、有力政治家をやり玉に挙げた事実だけが残った。最近は、古森重隆NHK経営委員長への“風圧”を強めているようだ。「国際放送で国益重視を」。この発言のどこに、問題があるというのだろうか。

 ▼「天声人語」子は、「風に負けてはならない時がある」という。その通りだ。ただ、自分たちもまた風を起こし、それに脅威を感じる人たちがいる。自らの大きな力に無頓着にみえるのは、残念なことだ。


信濃毎日新聞社 社説・コラム http://www.shinmai.co.jp/news.htm#column

信濃毎日新聞社 社説 2008年4月3日(木)

映画「靖国」 上映復活に努めたい

 靖国神社をテーマに中国人監督が撮った映画が、上映中止に追い込まれた。憲法の保障する「表現の自由」にかかわる重大な問題だ。見過ごしにするわけにはいかない。

 李纓監督のドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」である。戦争が日本人の心に残した混乱とその背景を描こうと、10年をかけて撮影した。

 軍刀の「靖国刀」を打ち続ける刀匠、軍服姿で隊列を組み参拝する男たち、星条旗を掲げて小泉純一郎元首相の参拝に賛意を示す米国人…。神社をめぐる人たちを淡々と描いた映画だという。

 「靖国神社はアジアにとって重要な問題。人々がもっとよい形でコミュニケーションできるようにしたい」。監督は狙いをそんなふうに話している。

 一部メディアからは「反日的な作品だ」といった声が上がっていた。文化庁が関係する団体から公的助成金が出ていたことから、自民党の稲田朋美議員らの求めで、全国会議員向けの試写会を開いた経緯がある。

 関係者によると、試写会の後、一部の政治団体が上映中止を働き掛ける動きを見せていたという。中止した映画館の一つは「近隣の商業施設に迷惑を掛ける恐れがあるため」と説明している。理不尽な圧力によって、世に問う機会が奪われた形である。

 「『事前検閲だ』とか『表現の自由を侵害している』などと批判されたが、私の意図とは違う。表現の自由は尊重されるべきだ」。稲田議員は述べている。

 議員がそう考えるなら、上映が実現できるよう、これから力を尽くしてほしい。

 文化庁にも問題がある。国会議員向け試写会は文化庁の仲介で行われた。検閲に加担したと批判されても仕方ない行為だった。

 「一切の表現の自由は、これを保障する」「検閲はこれをしてはならない」。憲法21条のこの規定を社会の中で実現する第1の責任は政府にある。文化庁も上映復活に努めるべきだ。

 思想・信条や表現の自由が脅かされるケースが後を絶たない。例えば今年2月には、日本教職員組合(日教組)が東京都内のホテルで予定していた催しが中止に追い込まれた。右翼団体による妨害を心配したホテルが契約をキャンセルしたためだ。

 憲法が保障する自由は、社会のすべての構成員が本気になって守らないとぐらついてしまう。この問題の今後を見守りたい。


神戸新聞 社説 http://www.kobe-np.co.jp/shasetsu/

神戸新聞 社説 2008年4月3日

「靖国」上映中止/民主主義の危機に通じる

 ドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」の上映中止や延期の動きが相次いでいる。東京では上映予定がすべてなくなった。映画館側は「近隣の商業施設に迷惑をかける恐れがある」と説明するが、異様な連鎖反応というほかない。
 思いだすのは、日教組と会場使用の契約を交わしながら、一方的に破棄した大手ホテルの対応だ。ホテル側は右翼団体による街宣活動が予想されて「宿泊客の安全が保てない」とした。結果的に、相手の思惑通りになったことは否めない。
 今回も上映に対する嫌がらせや妨害への懸念があるとするなら、きわめて憂慮すべき事態である。気に入らないことに圧力を加え、加えられた方も委縮してしまう。そんな風潮をはびこらせてはならない。
 軽く見て放置すれば、表現・言論の自由や民主主義の危機につながってしまう。あってはならないことだ。
 映画「靖国」は、日本に住む中国人監督がつくった。軍刀「靖国刀」を打つ刀匠が戦争や神社に抱く思いを、終戦記念日の靖国神社の光景などを交えて描いている。
 見逃せないのは、作品に文化庁の所管法人から助成金が出ていることを理由に、一部の国会議員の要求で、異例の試写会が行われた経緯である。当初、映画の配給会社側は反発していたが、最終的には「全国会議員が対象なら」と受け入れた。
 試写要求に加わった自民党の稲田朋美衆院議員は「『事前検閲だ』などと批判されたが、私の意図とは違う」と述べている。上映の相次ぐ中止や延期に影響を与えたかどうかも、はっきりしない。
 だとしても、「政治的に中立かどうか疑問がある」などとして、事前に内容を確かめること自体、自由な表現への干渉になりかねない。日本映画監督協会が強く抗議したのは危機感の反映といえる。
 映画は創作活動であり、何らかの考えが反映する。異論はあって当然だが、発表の機会は保証されなければならない。
 映画館側にすれば、混乱を懸念したうえの苦渋の決断だったのだろう。だが、表現の場を自ら閉ざすことは文化の自滅にも通じ、やはり疑問といわざるを得ない。
 作品は先日、香港国際映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞を得た。見たいという人も多いだろう。大切なのは、上映を期待するだけではなく、支えようという一人一人の意思である。国会議員には、そうした行動の先頭にこそ、立ってほしい。

(4/3 12:40)


西日本新聞 社説 http://www.nishinippon.co.jp/nnp/column/syasetu/

西日本新聞 社説 2008年4月3日 00:21

「表現の自由」守る勇気を 「靖国」上映中止

 言いたいことが言える。作品を発表できる。集会や催しを開ける。

 こうした自由が1つ1つ守られることで、民主的な社会や国家は成り立っている。戦争を止められなかった過去から、私たちが学んだ教訓でもある。

 しかし、憲法で保障された言論や表現の自由を脅かす出来事が続いている。

 日教組が2月、東京都内で予定していた教研集会の全体集会が中止になった。会場のホテルに使用を断られたからだ。

 そして今度は、映画だ。靖国神社をテーマにしたドキュメンタリー「靖国 YASUKUNI」の上映を、東京と大阪の映画館5館が取りやめた。

 いずれも理由は同じである。右翼の街宣活動などで「利用客や周辺に迷惑が及ぶ可能性があるから」だという。

 日教組の会場問題で、私たちは集会や言論の自由が守られなければ、民主主義の根幹が揺らぐ、と訴えた。また同じことが繰り返された。極めて残念だ。

 「靖国」は、終戦記念日に訪れる参拝者や遺族らの姿などを中国人監督が記録した日中合作映画だ。文化庁所管の法人から助成金を受けて制作された。香港国際映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞を受賞するなど、海外でも話題になった。

 確かに、靖国神社にさまざまな思いを抱く日本人にとって、刺激的な場面もある。一部のメディアは「反日的」な内容だと批判した

 芸術作品なのだから、評価や賛否は、あって当然だ。ただ、公的な助成の妥当性を自民党国会議員が疑問視し、国会議員を対象とした試写会を開いたことで、騒ぎが大きくなった。

 議員らは「検閲の意図は全くない」と言う。助成の妥当性のチェックも大切だろうが、封切り間際に試写を求めた行為は慎重さを欠いたと言わざるを得ない。公の存在である議員の関与は、それ自体が無言の圧力となり、結果として表現の自由を妨げる可能性があるからだ。

 日本映画監督協会は、試写要求に「上映活動を委縮させる」「自由な創作活動を精神的に圧迫する」と抗議した。

 映画館側が、トラブルを避けようとする気持ちは理解できる。事件が起きなければ、警察は何もしてくれない、という不信感も根強い。このままでは上映自粛の動きは地方にも広がろう。

 渡海紀三朗文部科学相は「作品発表の機会が圧力や嫌がらせでなくなるのは残念。あってはならない」と述べた。

 その通りである。文科相が本気でそう思うならば、「文化の守り手」としての対応策を具体的に示してほしい。警察の一層の協力を求めたい。別の会場で上映する機会をつくってもいい。

 事なかれで目をつぶっていては、自由は守れない。気に入らない言論や表現を圧殺しようとする無法な行為をのさばらせないよう、社会全体が毅然(きぜん)と立ち向かう勇気が必要だ。

=2008/04/03付 西日本新聞朝刊=


南日本新聞 社説 http://373news.com/_column/syasetu.php

南日本新聞 社説 2008年4月3日付

[「靖国」中止]委縮の広がりを憂える

 民主主義の根幹を成す「言論や表現の自由」が危うい。靖国神社をテーマにした中国人監督のドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」の上映を自粛する動きが広がっていることだ。嫌がらせや妨害を懸念してというが、異様な事態である。

 今月公開を予定していた東京と大阪の5つの映画館が、すべて上映を断念した。実際に右翼団体から抗議電話などがあった館もあったが、ほとんどは「いろいろ問題になっており、客や周辺施設に迷惑をかけかねない」を理由に挙げる。

 “後難”を恐れるがゆえの対処は分からないでもない。だが、映像で社会に訴えたいという人々に、表現の場を提供するのは映画館の重要な役割だ。理不尽な圧力に屈して、発表の場を封じてしまえば自らの首を絞めることにもなろう。

 日教組の教研集会の会場と宿泊を引き受けていた東京のホテルが、右翼の街宣示威活動を恐れて使用を断った事例と似ている。あの時、最も憂慮されたのが委縮の連鎖だった。自主規制は一部の過激な政治団体にとって思うつぼだろう。

 映画「靖国」は、自由な環境で映画を作りたいと日本に移り住んだ李纓(りいん)監督の作品だ。10年間にわたって参拝者、遺族、刀匠の姿や境内の光景などを淡々と記録した。香港国際映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞に輝くなど評価も高い。

 それが上映中止に追い込まれたのは一部メディアが「反日的」と指摘し、政府が管轄する日本芸術文化振興会から助成金が出ていると報じたのがきっかけだ。稲田朋美氏ら自民党の一部議員が「政治的に中立かどうか」と疑問視する動きとなり、支給の適否を判断するため、異例の全国会議員向け試写会が開かれた。

 稲田議員は「事前検閲とか表現の自由を侵害しているなどとの批判は、私の意図とは違う」と弁明するが、試写会を求めたこと自体が、無形の圧力と受け取られても仕方ない。行動の余波を考えて慎重に振る舞うべきではなかったか。

 日本映画監督協会の「あらゆる映画は自由な発想と意志のもとに作られ、自由に上映されるべき」との声明には危機感がにじむ。「靖国」の上映予定は鹿児島ではないが、準備中の映画館は全国にある。映画館が踏ん張る勇気を持てるように社会全体で支えていく必要もある。

 映画の見方が人によって異なるのは当然だ。批判するにしろ共感するにしろ、作品を見た上で自由な論議をしてもらうことが李監督の狙いでもあったはずだ。


日経ネット 社説・春秋 http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/

日本経済新聞 社説 2008.4.4

封じてならぬ 「靖国」 上映

 靖国神社をテーマにした中国人監督のドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」の一般公開を各地の映画館が一斉に中止した。右翼団体などの抗議活動で混乱が起きかねないからだという。言論、表現の自由を損なう事態であり、到底見過ごせない。日本新聞協会も同趣旨の談話を発表した。

 この作品に対しては「反日的な内容だ」などとの指摘がある。とりわけ、そこに文化庁所管法人の基金から助成金が出ていることを自民党の稲田朋美衆院議員らが問題視してきた。議員側の要請を受けて、国会議員向けの試写会も開かれている。

 こうした経過のなかで右翼団体が反発を強め、一部の映画館は嫌がらせを受けたという。封切り後の妨害を恐れる劇場側の意識が伝染し、一館が中止を決めるとほかの劇場も次々に取りやめてしまった。

 営利企業の映画館にしてみれば、トラブル含みの作品は避けて通りたいというのが本音ではあろう。直接的な圧力はなくとも、いわば作品を取り巻く「空気」を読んで中止を決めた。そういう状況だろう。

 しかし、どんな作品であれ、公開して多くの観客の目にさらし、議論の材料にしてもらうのが表現の自由を保障した社会の基本だ。営利企業とはいえ、芸術文化の担い手でもある劇場の事なかれ主義的な対応は極めて残念である。多様な表現を安易に封じる危うい空気が広がりはしないか、懸念を抱かざるを得ない。

 劇場側としては、政治家の動きに過敏に反応した面もあるようだ。ただ、稲田議員らが問題にしているのは公的助成の妥当性であって、上映の是非ではない。芸術文化への助成のあり方は大いに議論すべき課題であり、国会議員がそれをただすのも正当な行為だ。そうした点が十分に伝わらなかったのだろうか。

 ここへきて、大阪や名古屋などで5月以降、いくつかの映画館が作品の上映に踏み切ることがわかった。静かな環境で上映できるよう、警察も妨害行為や脅迫を徹底的に取り締まる必要がある。そもそも、右翼団体の街宣活動などに対して警察は弱腰だと感じる人は多い。今回の事態の背景に、そうした不信感があることも警察当局は認識すべきだ。


愛媛新聞 コラム社説 http://www.ehime-np.co.jp/rensai/shasetsu/

愛媛新聞  コラム社説 2008年04月04日(金)

「靖国」上映中止 日本の「自由」が問われている

 靖国神社を題材にしたドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」の上映を中止したり、延期したりする映画館が相次いでいる。
 何らかの嫌がらせや圧力などがあったのだろうか。それとも自主規制なのか。いずれにしても憲法で保障された表現の自由の観点から見過ごすことのできない問題だ。
 国民は視聴機会を奪われたことになる。関係者は上映に努めてもらいたい。ただ、ここにきて一部の映画館で上映の動きが出てきた。社会全体で後押ししていくことも必要だろう。
 映画は軍刀「靖国刀」を打ち続ける刀匠が戦争や靖国神社に抱く複雑な思いを軸に描いた作品で、監督は日本に住む中国人の李纓さん。
 「靖国」をめぐっては、文化庁所管法人から助成金が出ていることを理由に、自民党の稲田朋美衆院議員らの要請で異例の国会議員向け試写会が開かれた。結果的にこれが上映中止の契機になったとも考えられる。
 全国会議員向けの試写会は事前検閲にあたるとの指摘もある。政治的介入と疑われるような行動は慎むべきだった。
 映画には制作者の意図や信条が込められている。評価は賛否さまざまだろう。
 しかし、それは映画を見た上で堂々と発表すればいい。内容を見ずに評判や憶測だけで判断するのは論外だ。上映を中止させたり、批判を封殺するようなことがあってならないのはいうまでもない。
 今回の問題だけでなく、集会などが中止されるケースが続いているのが気がかりだ。
 記憶に新しいところでは日教組の教育研究全国集会が中止になった。東京のグランドプリンスホテル新高縄が施設の使用を拒否したためだ。
 ホテル側はいったん契約を結んだが、右翼団体による妨害行為の可能性などを理由に一方的に契約破棄を通告したという。
 日教組の仮処分申請に東京高裁は会場の使用を認める決定を出していた。利用者の安全に配慮したとはいえ、ホテル側の対応は司法判断をも無視したもので、常識の域を超えている。
 茨城県つくばみらい市では市が開催を予定していたドメスティックバイオレンス被害者支援の講演会が、支援活動に反対する人たちの街宣活動などを理由に中止された。
 松山市では先日、市男女共同参画推進センターの図書コーナー書棚から題名にジェンダーフリーの言葉がある本が撤去されていたことが判明。市民グループが貸し出し禁止の法的根拠などを問う中村時広市長あての公開質問状を出している。
 憲法で保障された表現の自由や少数者の意見を尊重する民主主義の根幹が揺らいでいる。一人一人が問い直したい。
 「靖国」の李監督は、自由な映画制作を求めて一九八九年に来日した。果たして日本の社会はその思いにどれだけ応えているのだろう。上映中止問題であらためてこの国の「自由」の在り方が問われている。


岩手日報 論説 http://www.iwate-np.co.jp/ronsetu/ronsetu.htm

岩手日報 論説 2008年4月5日

「靖国」上映中止 表現の自由守り抜こう

 靖国神社を題材としたドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」は、映画館の上映中止が相次いでいる。国会議員が公開前に試写会を開かせるなど権力の影が見えるだけに、問題は深刻だ。表現の自由が脅かされるようなことはあってはならない。

 映画は日本に住む中国人の李纓(リイン)氏が監督を務めた。軍刀「靖国刀」を打ち続ける刀匠が戦争や靖国神社に抱く複雑な思いを軸に構成。10年間の映像を編集したという。

 4月から公開される予定だったが、東京都内の映画館4館と大阪市内の1館が最近になって中止を決定。名古屋市の1館も上映延期を決めた。

 要因に、中止を求める政治団体の動きが指摘される。ある映画館は「近隣の商業施設に迷惑をかける恐れがある」と説明。大音量の街頭宣伝などが予想され、混乱を避けたいとの思いがのぞく。

 見過ごすわけにいかないのが、作品をめぐる国会議員の動き。映画が文化庁の所管法人から助成金を受けていることを理由に、自民党の稲田朋美衆院議員が「作品の内容を確認したい」と文化庁に申し入れ、3月12日に試写会が開かれた。

 稲田議員は「政治的に中立な映画かどうかに疑問を感じた」と発言。政治家の言動は各方面に影響を与えずにおかない。日本映画監督協会が「今後の上映活動を委縮させる」と抗議したが、まさに恐れる方向へと進んでいる。

 上映中止と同じような事例が2月、日教組の教育研究全国集会であった。会場となるはずの東京都内のホテルが一方的に契約を破棄し、全体集会が開けなくなった。ホテル側は「右翼団体からの圧力はなかった」と語るが、政治団体の妨害行為を極度に警戒したとの見方は打ち消せない。

 このとき委員長を務めた森越康雄氏(元岩教組委員長)は本紙のインタビューに「この問題をないがしろにすると次々に同様の事件が起きる」と答え、集会・言論の自由の危機に警鐘を鳴らしている。

 米国では4年前、ブッシュ大統領を痛烈に批判したドキュメンタリー映画「華氏911」(マイケル・ムーア監督)が上映されて話題を呼んだ。ウォルト・ディズニー社が傘下企業に配給を拒否させるという圧力もあったが、作品公開によって市民は映画の内容について評価を議論することができた。

 わが国も、表現の自由では成熟社会をつくってきたはずだった。その基盤を危うくしてはいけない。

 福田康夫首相は「靖国」について「嫌がらせなどが理由で上映中止になるなら、誠に遺憾だ」と述べた。稲田議員も「上映中止は残念としか言いようがない」と言明。その発言が真意なら、映画館が不安なく上映できる環境づくりに早急に乗り出すべきだ。

 映画上映は国民への重い問いかけにもなっている。大阪市では、ある映画館が5月上映を決断した。この動きを孤立化させず、全国に波及するよう社会全体で支えたい。

達下雅一(2008.4.4)


山陽新聞 社説 http://www.sanyo.oni.co.jp/syasetsu/syasetsu.html

山陽新聞 社説 2008年4月5日

「靖国」上映中止 看過できない公開の封印

 靖国神社を題材にしたドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」をめぐって、東京、大阪の映画館五館が四月の上映を中止し、名古屋の映画館一館も上映を延期するなど混乱が広がっている。
 一部の政治団体による嫌がらせや妨害が懸念されるからだという。言論、表現の自由を揺るがす由々しき事態で、見過ごすわけにはいかない。
 映画は、軍刀「靖国刀」を打ち続ける刀匠が戦争や神社に抱く複雑な思いを軸に、終戦記念日の靖国神社の情景、戦時の映像などを交えて構成している。監督は一九八九年から日本に住む中国人の李纓さんで、今年の香港国際映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞を受賞した。
 最初に騒ぎに火を付けたのは、この作品を「反日映画」と報じた週刊誌である。自民党の稲田朋美衆院議員らが、文化庁の所管法人からの助成金支出に絡め「政治的に中立かどうか疑問がある」として映画を見たいと文化庁に要請し、異例の国会議員向け試写会が開かれた。その後、一部の政治団体が上映中止を働き掛ける動きを見せていたという。
 相次ぐ上映中止の背景には、封切り後の面倒なトラブルを恐れる映画館サイドの意識がうかがえる。映画に対しては、評価する人もいれば、批判する人もいるだろう。しかし、その評価や判断の機会、考える自由を奪って封印してしまうことは許されまい。
 幸い、広島、大阪、京都など全国の十数の映画館が予定通り五月以降に上映に踏み切ることが分かった。大切なのは公開して議論の材料にすることだ。妨害行為に対しては警察当局の毅然(きぜん)とした対応も望まれる。自由な表現活動が委縮する社会にしてはならない。

(2008年4月5日掲載)


中国新聞 社説 http://www.chugoku-np.co.jp/Syasetu/index.html

中国新聞  2008年4月6日

「靖国」上映へ 不当な圧力拒む社会に

 危ぶまれていたドキュメンタリー映画「靖国」の上映が、広島市など各地で実現しそうだ。政治団体の圧力でとりやめる館が相次いだことで多くの人が「不当な力に屈するな」と声を上げた。それを背にして、別の映画館が名乗り出た。安堵(あんど)する。

 二十年間日本に住む中国人監督李纓さんが十年がかりで撮影し、海外で受賞もしている。

 ところが自民党の衆院議員が「文化庁の所管法人の助成映画なのに反日的では」と異例の試写を求めた。一部の政治団体は、上映予定の映画館に街宣車を出して反対した。

 「隣に迷惑を掛けては」「万一のことがあっては」と連鎖反応のように上映中止が続いた。右翼の妨害の恐れを理由に日教組の集会を断ったグランドプリンスホテル新高輪の姿を重ねた人も多かったはずだ。

 この成り行きに、社会に「表現の自由」への危機感が走ったといえよう。日弁連や日本新聞協会が談話を出しただけでなく、福田康夫首相も「嫌がらせで中止とは誠に遺憾」とコメントした。こうした声に応えるように、一転して各地から上映希望が配給元に届いている。

 一つのテーマがあれば賛成する人も、反対する人もいる。多様な意見が戦わされてこそ、物事の本質は明らかになる。少数派の声によ

 だからこそ大切なのが、表現の自由。気に入らないからと力で抑えようとするのは忌むべき方法だ。政治団体は言いたいことがあれば、映画を見てから言葉で主張すればいい。

 一方で、映画館側の「危うきに近寄らず」という態度も情けなかった。「抗議」されてもいないのに過剰反応した館もある。営業上のリスクを避けるのは大事だが、そこばかりに気をとられると「脅し」に弱い体質に陥りかねない。

 嫌がらせをされたり、その恐れがあるなら、黙って屈する前に、とりあえず警察に相談したかった。映画での表現の自由は、上映の場があってこそ成立する。その社会的な使命を忘れてほしくない。

 上映を決めた広島市の映画館には警察から「心配な事はないですか」と電話があった。近所の商店からは「何かあっても迷惑とは思わないから頑張って」と励まされた。こんなちょっとした一言が映画館の勇気を支えることも、心に留めたい。


沖縄タイムズ 社説 http://www.okinawatimes.co.jp/edi/

沖縄タイムズ 社説(2008年4月6日朝刊)

[「靖国」上映]
試される社会の成熟度

 日本在住の中国人監督・李纓(リ・イン)氏のドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」の上映を中止する動きは、言論・表現の自由が私たちの社会には十分に定着していないのではないか、との懸念を感じさせる。

 映画は、八月十五日に靖国神社で繰り広げられる様子を十年間にわたって記録したものだ。

 もし国会議員向けに開かれた試写会を「無言の圧力」と感じて中止したのだとしたら、行き過ぎた自主規制というしかない。

 試写会のきっかけをつくった自民党の稲田朋美衆院議員は、当初、「反日映画になっているようだ」としていた。が、その後「上映をやめさせようと考えたことはない」と主張を変えている。

 言うまでもないが、表現の自由は民主主義社会の根幹を成す。意見の違いを大切にし尊重し合うのは民主社会を計る尺度でもある。

 「わたしは、お前のいうことに反対だ。だが、お前がそれを言う権利を、わたしは、命にかけて守る」―フランスの啓蒙思想家、ヴォルテールの言葉だが、自由に意見を言い合える社会でなくなれば、戦前の暗い社会に逆戻りし息苦しくなるのは論をまたない。

 何よりも映画は表現の自由を担う大きな分野だ。目に見えぬ「影」に脅え、自主規制したとしたら、言論の自由はまさに危機的状況にあるとみなければならない。

 映画の評価は見る人が判断するものだ。事前に見る機会を閉ざせば、映画館は社会的役割を放棄したといわれかねない。映画館には踏ん張ってもらい、私たちもまた声を上げ上映を支えていきたい。

 五月以降、北海道から沖縄まで二十一の映画館が五月以降に上映を計画しているという。

 今回の騒ぎが、逆に上映に向けてベクトルを転換したのであれば評価したい。

 多様な意見があってこそ健全な社会であり、自由に表現できるのが民主的な社会といえるからだ。

 映画を見るにあたっては、まず予断を持たず、実際に自分の目で確かめた上できちんと判断すべきだろう。大方の意見もそうであり、自らの思想的尺度をいったん脇に置いて映画を見る。私たちに求められているのはそのことである。

 不気味な「影」を過大に評価し、無難に自主規制してしまうと、自由社会とは裏腹に自らの首を絞めることになりかねない。

 そんな空気が日本社会を覆ってしまわないようにすることが、一人一人の責務と考えたい。

 上映中止は、日教組の「教育研究全国集会」が東京都内のホテルによって契約破棄され、全体集会が中止になったこととも軌を一にする。

 憲法二一条は集会、結社及び言論、出版を含めた表現の自由を保障している。「表現の自由は、とりわけ批判の自由ないし反対の自由として、重要な意味を持つ」(宮沢俊義『憲法講話』)。

 権力にものが言えなくなる社会を再びつくってはならない。そのためには私たち一人一人が不断に努力し、言論の自由を脅かす芽が出たらそれを摘み取る社会を築くことが大切だ。


The Japan Times Opinion - Editorial (http://www.japantimes.co.jp/opinion.html)
 The Japan Times Editorial archive (http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/ed-all.html)
 The Japan Times Weekly Editorial (http://www.japantimes.co.jp/weekly/ed/ed-menu.htm)

Sunday, April 6, 2008

EDITORIAL
Freedom-of-expression gantlet

Four movie theaters in Tokyo and one in Osaka have decided not to screen "Yasukuni," a documentary on Japan's war shrine. Rightist groups protested against the planned screenings with vehicle-mounted loudspeakers and harassing telephone calls. Most movie theaters cited possible inconveniences to the audience and local communities as the reason for their decisions. Regrettably, their decisions restrict freedom of speech and expression. The film cannot be seen in the capital. About a dozen cinemas in other areas including Osaka plan to screen it.

The situation reminds one of the refusal early this year by Hotel Shin Takanawa in Tokyo to let the Japan Teachers' Union (Nikkyoso) use a large room for its study meeting in defiance of a Jan. 30 Tokyo High Court injunction.
The movie was directed by Mr. Li Ying, a Chinese movie director who has lived in Japan for many years. He spent 10 years making the documentary, which shows visitors to the shrine holding different views on the war and the shrine itself, and a swordsmith who made "Yasukuni Swords."

A Liberal Democratic Party Lower House member who thought the movie might not be politically neutral had questioned why the filmmakers received a subsidy from an organization under the Cultural Affairs Agency's jurisdiction. She told the agency she wanted to see the film, and an unusual invitation was eventually extended to all Diet members for a March 12 preview.

The Directors Guild of Japan, of which Mr. Li is a member, issued a protest, saying the behavior of some Diet members who had called for the preview would hinder efforts to screen the movie and would put psychological pressure on movie directors. The Federation of Cinema and Theatrical Workers Unions of Japan said the preview was tantamount to pre-censorship.

The LDP member says she doesn't want freedom of expression and political activity curtailed. If she is serious, not only the film industry but also lawmakers should take concrete action to ensure that screenings occur. Police should promise to get tough with any party who tries to physically obstruct screenings.

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The Japan Times Weekly's Japanese summaries of The Japan Times' editorials.
The Japan Times Weekly: April 12, 2008

Freedom of expression threatened as cinemas shun Yasukuni
(From The Japan Times April 6 issue)

Four movie theaters in Tokyo and one in Osaka have decided not to screen Yasukuni, a documentary on Japan's war shrine. Rightist groups protested against the planned screenings with vehicle-mounted loudspeakers and harassing telephone calls. Most movie theaters cited possible inconveniences to the audience and local communities as the reason for their decisions.

Regrettably, their decisions restrict freedom of expression. No cinemas will show the film in Tokyo, but about a dozen in other areas plan to.

The situation reminds one of the refusal this year by Hotel Shin Takanawa in Tokyo to let the Japan Teachers' Union (Nikkyoso) use a large room for its study meeting in defiance of a Jan. 30 Tokyo High Court injunction.

The movie was directed by Mr. Li Ying, a Chinese movie director who has lived in Japan for many years. He spent 10 years making the documentary, which shows visitors to the shrine holding different views on the war and the shrine itself, and a swordsmith who made "Yasukuni Swords."

A Liberal Democratic Party Lower House member who thought the movie might not be politically neutral had questioned why the filmmakers received a subsidy from an organization under the Cultural Affairs Agency's jurisdiction. She told the agency she wanted to see the film, and an unusual invitation was eventually extended to all Diet members for a March 12 preview.

The Directors Guild of Japan, of which Mr. Li is a member, issued a protest, saying the behavior of some Diet members who had called for the preview would hinder efforts to screen the movie and would put pressure on movie directors. The Federation of Cinema and Theatrical Workers Unions of Japan said the preview was tantamount to pre-censorship.

The LDP member says she doesn't want freedom of expression and political activity curtailed. If she is serious, not only the film industry but also lawmakers should take concrete action to ensure that screenings occur. Police should promise to get tough with any party who tries to physically obstruct screenings.

The Japan Times Weekly: April 12, 2008

映画「靖国」上映中止、表現の自由脅かす

東京と大阪の映画館が、靖国神社についてのドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」の上映を中止した。右翼団体の妨害を恐れ、観客や近隣住民の迷惑を考えての決断だという。遺憾ながらこれは表現の自由を規制する決断だ。映画は日本在住の中国人監督の作品で、文化庁所管団体から助成金を得ているが、ある自民党議員が内容の政治的公正さを疑問視し、結局、全国会議員対象に試写会が開かれた。映画業界では事前検閲に等しいという抗議が上がった。
その自民党議員は、表現の自由を制約する意図はないという。ならば、議員たちも上映を可能にする具体策を講じるべきだ。警察も妨害者は誰であれ断固排除すると明言すべきだろう


琉球新報 社説 http://ryukyushimpo.jp/news/storytopic-11.html

琉球新報 社説 2008年4月11日

映画「靖国」 民主主義を脅かす言論封殺

 国会議員が映画「靖国YASUKUNI」の主要シーンの削除を主張し、物議を醸している。同映画は国会議員向けの試写会を機に、上映中止が相次いだ。同議員は「出演者の意向」と説明しているが、表現と言論の自由を脅かす行為である。
 映画は「靖国刀」を作り続ける刀鍛冶(かじ)の姿を通して、靖国神社と太平洋戦争をめぐる日本とアジアのさまざまな諸相を描いている。
 監督の李纓(リイン)さんは「靖国神社をめぐる空気や精神的な空間を描くことで、背景にある歴史や意味を問い掛けたかった」と、日本のメディアに語っている。
 国内でも靖国神社は、首相の公式参拝問題などを通して、戦争責任や政教分離、思想・信条の自由など憲法に絡むさまざまな波紋を広げている。
 首相の靖国公式参拝をめぐっては、中国や韓国などアジア諸国は強く反発している。
 愛国心との兼ね合いで靖国が語られることもある。「靖国で会おう」と戦禍に散った若い日本兵たちの遺志を「参拝の論理」とする政治家もいる。
 一方で、戦後、靖国を参拝していた昭和天皇は、A級戦犯が靖国に合祀(ごうし)された時期から参拝をやめている。
 日本人にとっても、靖国は複雑でさまざまな思いが交差する場所となっている。しかし、そこにタブーがあってはならない。
 太平洋戦争で日本はアジアを侵略し、多くの同胞たちを戦禍の犠牲とした。敗戦を機に日本は帝国主義の天皇中心国家から民主主義の国民中心国家に大きく変化した。
 戦後の平和憲法は、戦争と武力を否定し、集会・結社の自由や言論・出版など「表現の自由」(21条)を強化した。表現の自由が民主主義の基本だからだ。
 憲法は、検閲も禁止している。検閲は書籍、新聞、映画、放送などで表現される内容を、公権力が事前に強制的に調べ、不適当と認めたものの発表を禁止する行為だ。
 国会議員ともあろう者が、憲法を知らないはずはない。言論封殺は、戦後民主主義への重大な挑戦である。看過できない


東奥日報 社説 バックナンバー http://www.toonippo.co.jp/shasetsu/back_index.html

東奥日報 2008年4月13日(日)

息苦しい世にしたくない/「靖国」上映中止

 靖国神社がテーマのドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」は十二日から順次、各地で公開されるはずだった。

 「靖国」を見るか見ないか、見て素晴らしいと思うか偏っていると思うか。どれも自由なのに、上映前に圧力がかかった。おびえるように、上映の中止や延期を決める映画館が連鎖的に出ている。異様な光景だ。

 映画を見た上で評価したり議論すればいいのに、それができなくなる。映画は表現活動でもあるだけに、言論・表現の自由にかかわる重要な問題だととらえたい。そして、モノを言いにくくさせたり、息が苦しくなるような世の中にしたくないと思い定めたい。

 「靖国」は、文化庁関連の団体の助成を得て作られたが、反日映画が日本の助成金で作られたとする週刊誌の報道がきっかけになり、自民党の稲田朋美衆院議員らが「早く見たい」と文化庁に要請した。

 これを受けて文化庁が仲介した国会議員向けの試写会が、上映前に行われたのも異様だ。事前検閲ではないか、と問題にもなった。

 試写を見た稲田氏は「検閲の意図は全くない。政治的に中立な映画かどうかに若干の疑問を感じた」と述べたが、上映を予定していた東京、大阪の五つの映画館が試写会の数日後から上映中止を相次いで決めた。

 右翼団体が近くで上映中止を求める街頭宣伝活動をしたことや、具体的抗議はなかったが客や周辺に迷惑がかかっては、などと考えて自主規制したという。

 トラブルを避けたいのは分かる。だが、上映をやめることは、結果的に抗議や圧力に屈したことになる。

 映画館が、ある団体が事前に問題視した映画に上映の場を提供しなくなると、映画を制作する側は問題になりそうな作品が作りにくくなる。映画館の自主規制が、作り手を萎縮(いしゅく)させ、国民が映画を見る機会を奪う恐れがある。

 映画のほか新聞、放送、出版、作家など言論や表現活動にかかわる多くの団体が、そんな危機感などから上映中止に抗議した。福田首相も「嫌がらせとかの理由で上映中止になるのは誠に遺憾」と述べている。

 「靖国」をめぐっては、出演した刀匠が出演シーンの削除を希望しているとされる。靖国神社は、事実を誤認させるような映像が含まれているなどとして削除を求めている。監督の李纓(リイン)氏との間で新たな問題も起きている。

 その行方がどうなるか分からないが、少なくとも映画館は理不尽な力に屈してほしくない。八戸市など各地の映画館で上映が検討されている。歓迎したい。

 自分の主張と違う側に強い言葉でレッテルを張って攻撃したり、異論や少数意見を排除する動きが強まっているようにみえる。とても怖いことではないか。

 二月に東京で開かれた日教組の教育研究全国集会では、右翼団体の妨害が予想され、宿泊客らの安全を保てないと判断したホテルが会場を貸す契約を一方的に破棄する問題があった。

 妨害や抗議による混乱が心配だから会場を使わせない、映画を上映できないという動きが広がるのを食い止めたい。異論を認める寛容な社会であり続けたい。


産経ニュース コラム・オピニオン http://sankei.jp.msn.com/column/column.htm

産経新聞【主張】2008.4.17 02:25

【主張】映画「靖国」 助成金の適否を検証せよ

 靖国神社を題材にした中国人監督のドキュメンタリー映画「靖国」をめぐる上映中止問題で、映画の中身についてもさまざまな問題点が指摘されている。

 一つは、映画に登場する「靖国刀」をつくる刀匠の刈谷直治さん(90)が「出演場面と名前を映画から削ってほしい」と希望している問題だ。

 刈谷さんの話や自民党の有村治子参院議員の調査によると、李纓監督は文化庁から助成金が出ていることなどを説得材料にして刈谷さんの了承を得、刈谷さんが刀をつくる場面を撮影した。しかし、その試写の映像を見せられた刈谷さんの妻が「初めの趣旨と(内容が)違う」と撮影のやり直しを監督に求めたものの、要望は受け入れられなかったという。

 これに対し、李監督は「(刈谷さんに)どんな圧力があったのか。作品が成立できなくなるよう働きかけられたとしか受け取れない」と言っている。政治的圧力があったかのような発言だが、これは監督と出演者の問題であり、論点をすり替えてはいけない。李監督は、刈谷さん夫婦の疑問に真摯(しんし)に答えるべきである。

 また、靖国神社は、境内での撮影許可の手続きが守られなかったことを問題にしている。同神社によると、制作会社から10年間に撮影許可申請が3回出されたが、映画「靖国」の制作を目的とした申請は一度もなかったという。

 通常の参拝風景はともかく、戦死者の写真や遺品が展示されている境内の見学施設「遊就館」などの無断撮影はルール違反だ。

 映画の最後の部分で、日中戦争などの写真と昭和天皇の写真や映像が交互に映し出され、中国側が“旧日本軍の蛮行”として反日宣伝に使っている信憑(しんぴょう)性に乏しい写真が何枚も使われている。

 文化庁はこの映画に日本芸術文化振興会を通じて750万円の助成金を出している。映画に、政治的、宗教的宣伝意図のないことが助成金支出の条件とされる。

 3月末の参院内閣委員会で、有村議員はこの点について、文化庁の見解をただした。だが、文化庁側は「振興会の記録映画専門委員会で審査を行った結果、政治的な宣伝意図を有するものでないと判断されたと承知している」と人ごとのような答弁を繰り返した。

 助成金の適否について、納税者の納得が得られるだけの文化庁による検証が必要である。


河北新報 コルネット http://www.kahoku.co.jp/

河北新報 社説 2008年4月17日

社説
表現の自由/研ぎ澄ませたい自戒の感度

(本文がみつかりませんでした)


朝日新聞 社説 http://www.asahi.com/paper/editorial.html

朝日新聞 社説 2008年05月03日(土曜日)付

日本国憲法―現実を変える手段として

 たった1年での、この変わりようはどうだろう。61回目の誕生日を迎えた日本国憲法をめぐる景色である。

 昨年の憲法記念日のころを思い出してみる。安倍首相は、夏の参院選に向けて憲法改正を争点に掲げ、そのための手続き法である国民投票法を成立させた。集団的自衛権の政府解釈を見直す方向で、諮問機関も発足させた。

 ところがいま、そうした前のめりとでも言うべき改憲気分は、すっかり鳴りを潜めている。福田首相は安倍時代の改憲路線とは一線を画し、集団的自衛権の見直しも棚上げにした。

 世論も冷えている。改憲の旗振り役をつとめてきた読売新聞の調査では今年、93年以降の構図が逆転し、改憲反対が賛成を上回った。朝日新聞の調査でも、9条については改正賛成が23%に対して、反対は3倍近い66%だ。

 90年代から政治やメディアが主導する形で改憲論が盛り上がった。だが、そもそも政治が取り組むべき課題を世論調査で聞くと、景気や年金など暮らしに直結する問題が上位に並び、改憲の優先順位は高くはなかった。イラクでの米国の失敗なども背景に、政治の熱が冷めれば、自然と関心も下がるということなのだろう。

 むろん、政界再編などを通じて、9条改憲が再浮上する可能性は否定できない。ただ、今の世の中の流れをみる限りでは、一本調子の改憲論、とりわけ自衛隊を軍にすべきだといった主張が訴求力を失うのはあたり前なのかもしれない。

■豊かさの中の新貧困

 9条をめぐってかまびすしい議論が交わされる陰で、実は憲法をめぐってもっと深刻な事態が進行していたことは見過ごされがちだった。

 すさまじい勢いで進む経済のグローバル化や、インターネット、携帯電話の広がりは、日本の社会を大きく変容させた。従来の憲法論議が想像もしなかった新しい現実が、挑戦状を突きつけているのだ。

 たとえば「ワーキングプア(働く貧困層)」という言葉に象徴される、新しい貧困の問題。

 国境を超えた競争の激化で、企業は人件費の削減に走る。パートや派遣の非正規労働者が飛躍的に増え、いまや働く人の3分の1を占める。仕事があったりなかったりの不安定さと低賃金で、生活保護の対象になるような水準の収入しかない人たちが出てきた。

 本人に問題があるケースもあろう。だが、人と人とのつながりが希薄になった現代社会では、個人は砂粒のようにバラバラになり、ふとしたはずみで貧困にすべり落ちると、はい上がるすべがない。

 戦後の日本人は、豊かな社会をめざして懸命に働いてきた。ようやくその目標を達したかに思えたところで、実は袋の底に新しい穴が開いていた。そんな状況ではあるまいか。
 東京でこの春、「反貧困フェスタ」という催しがあり、そこで貧困の実態を伝えるミュージカルが上演された。

 狭苦しいインターネットカフェの場面から物語は始まる。カフェを寝場所にする若者たちが、かたかたとキーボードをたたきながらネットを通じて不安や体験を語り合う。

 長時間労働で倒れた人、勤め先の倒産で給料未払いのまま職がなくなってしまった若者、日雇い派遣の暮らしから抜け出せない青年……。

 最後に出演者たちが朗唱する。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。生存権をうたった憲法25条の条文だ。

 憲法と現実との間にできてしまった深い溝を、彼らは体で感じているように見えた。

■「自由」は実現したか

 民主主義の社会では、だれもが自分の思うことを言えなければならない。憲法はその自由を保障している。軍国主義の過去を持つ国として、ここはゆるがせにできないと、だれもが思っていることだろう。だが、この袋にも実は穴が開いているのではないか。そう感じさせる事件が続く。

 名門ホテルが右翼団体からの妨害を恐れ、教職員組合への会場貸し出しをキャンセルした。それを違法とする裁判所の命令にも従わない。

 中国人監督によるドキュメンタリー映画「靖国」は、政府が関与する団体が助成金を出したのを疑問視する国会議員の動きなどもあって、上映を取りやめる映画館が相次いだ。

 インターネット社会が持つ匿名性は「両刃の剣」だ。多数の人々に個人が自由に発信できる世界を広げる一方で、無責任な書き込みによる中傷やいじめ、プライバシーの暴露が、逆に個人の自由と人権を抑圧する。

 こうした新しい現実の中で、私たちは自由と権利を守る知恵や手段をまだ見いだしていない。

 憲法で「全体の奉仕者」と位置づけられている公務員が、その通りに仕事をしているか。社会保険庁や防衛省で起きたことは何なのか。憲法の精神への裏切りではないのか。

 憲法は国民の権利を定めた基本法だ。その重みをいま一度かみしめたい。人々の暮らしをどう守るのか。みなが縮こまらない社会にするにはどうしたらいいか。現実と憲法の溝の深さにたじろいではいけない。

 憲法は現実を改革し、すみよい社会をつくる手段なのだ。その視点があってこそ、本物の憲法論議が生まれる。


毎日新聞 社説 http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/

毎日新聞 2008年5月3日

社説:憲法記念日 「ことなかれ」に決別を 生存権の侵害が進んでいる

 あれほど盛んだった改憲論議が、今年はすっかりカゲをひそめてしまった。国民の関心は憲法よりも、暮らしに向かっている。

 戦後最長の大型景気も天井を打って下り坂に転じた気配が濃厚である。ガソリンだけでなく、食品も値上げラッシュだ。

 ところが、所得は一向に伸びない。老後を支える年金や医療保険改革は前進しない。暮らしの悪化の実感の前に、憲法問題は背後に追いやられてしまった。

 しかしながら、実は今年ほど、憲法が切実な年もないのではないか。

 右翼のいやがらせへの懸念を理由に、裁判所の決定を無視してかたくなに日教組の集会を拒んだ東京のホテル。国会議員の介入を機に映画館の上映中止が相次いだ映画「靖国」。

 憲法の保障する集会の自由、表現の自由が脅かされている。「面倒は避けたい」と思うのは人情だ。しかし、このとめどもない「ことなかれ」の連鎖はいったいどうしたことか。意識して抵抗しないと基本的人権は守れない。私たちの現状は、やや無自覚に過ぎるように見える。

◇感度が鈍っている

 NHKが5年ごとに「憲法上の権利だと思うもの」を調査している。驚いたことに「思っていることを世間に発表する」こと(表現の自由)を権利と認識するひとの割合が調査ごとに下がっている。73年は49%だったのが、03年は36%まで落ち込んだ。表現の自由に対する感度が鈍っているのが心配だ。

 その意味で注目されるのが、イラクでの航空自衛隊の活動に対する名古屋高裁の違憲判決だ。

 高裁は「バグダッドは戦闘地域」と認定し、空輸の法的根拠を否定した。対米協力を優先させ、憲法の制約をかいくぐり、曲芸のような論理で海外派遣を強行するやり方は限界に達している。そのことを明快に示す判決だった。

 しかし、この判決の意義はそれにとどまらない。憲法の前文は「平和のうちに生存する権利」をうたっているが、それは単なる理念の表明ではない。侵害された場合は裁判所に救済を求める根拠になる法的な権利である。そのような憲法判断を司法として初めて示したのである。

 ダイナミックにとらえ直された「生存権」。その視点から現状を見れば、違憲状態が疑われることばかりではないか。

 4月から始まった「後期高齢者医療制度」は高齢の年金生活者に不評の極みである。無神経な「後期高齢者」という名称。保険料を年金から一方的に天引きされ、従来の保険料より高い人も多い。「平和のうちに生存する権利」の侵害と感じる人が少なくあるまい。

 「憲法」と「現実」の懸隔が広がっている。働いても生活保護以下の所得しか得られないワーキングプアの問題など典型だ。年金を払い込みながら記録されていない「消えた年金」もそうであろう。「生存権」の侵害に監視を強める地道な努力が必要である。

 その努力の中心になるべきは、言うまでもなく国会だが、野党はもとより、与党もひたすら「生活重視」を唱えている。むしろ「内向き」過ぎると心配したくなる。ところが「生活重視」で一致するのに、スムーズに動かない。いわゆる「ねじれ国会」の弊害である。

 しかし、「ねじれ国会」の非効率性だけを言うのは一方的だ。「ねじれ」になる前の自民党はどうだったのか。強行採決を連発する多数の横暴そのものだったと言えるだろう。

 「ねじれ」以降、自民党は話し合い路線の模索に転じ、福田康夫首相は道路特定財源の一般財源化を約束するに至った。「ねじれ」なしでは起こりえなかったことである。カラオケ機を買うなど、年金や道路財源のデタラメな運営も「ねじれ国会」の圧力があって明らかになったことだ。

◇ルールの整備急げ

 私たちは「ねじれ国会」は、選挙で打開を図るのが基本だと主張している。選挙のマニフェストを発表する際、喫緊の重要課題について選挙結果に従うことを約束しておくのも一案だろう。こうしたルールの整備によって「ねじれ」を消化していくことが、民主政治を成熟させることにほかなるまい。

 憲法が両院不一致の場合の打開策としている両院協議会は、いま、ほとんど機能していない。両院それぞれ議決した側から10人ずつ委員を選ぶ仕組みだから、打開案がまとまりにくい。委員選出の弾力化など、その活性化に早急に取り組んでもらいたい。

 ただ「ねじれ」の有無にかかわらず、参院は「ミニ衆院」という批判を払拭(ふっしょく)する必要がある。明治から約120年の歴史を有する衆院と違い、参院は戦後改革で生まれた。憲法の精神の体現といってよい。参院はその自覚に立って独自性の確立を急ぐべきである。

 憲法で保障された国民の権利は、沈黙では守れない。暮らしの劣化は生存権の侵害が進んでいるということだ。憲法記念日に当たって、読者とともに政治に行動を迫っていく決意を新たにしたい。

毎日新聞 2008年5月3日 東京朝刊


神奈川新聞社 社説 http://www.kanaloco.jp/editorial/

神奈川新聞社 社説 2008年5月3日

社説
憲法記念日

人権擁護し理想の追求を

 「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」-。前文で国際社会にこう誓った日本国憲法が、きょう施行六十一年を迎えた。

 焦土から復興に立ち上がった先達の努力によって、現在の日本は自由な民主主義諸国の一角を占めるに至った。先輩たちへの感謝を忘れてはなるまい。ところが、最近、この成果を土台から腐食させるような問題が続いている。

 第一が、ドキュメンタリー映画「靖国」の上映中止、日教組集会の会場使用拒否などで表面化した表現の自由、集会の自由の危機である。一部の映画館、ホテルが右翼団体の街頭宣伝活動などに萎(い)縮(しゅく)した結果、自由が封じられた。嫌がらせや不法行為には警察を含めて行政、社会が毅(き)然(ぜん)とした態度を取るべきだ。ところが「靖国」の例では、騒ぎの発端をつくったのは与党の国会議員だった。

 そこで思い出されるのが、反戦ビラ配布が狙い撃ち同然に検挙された立川反戦ビラ事件だ。政府に批判的な表現を抑圧し、萎縮させるような権力の動きがあった。

 表現の自由は民主主義の土台である。もし萎縮の連鎖や権力の暴走が続くようなら、日本は戦前のような「物言えぬ社会」「専制と隷従、圧迫と偏狭」の社会に戻ってしまうだろう。国民一人一人が、表現の自由を守り抜く決意を持たなければならない。

 第二は、貧困、格差の問題だ。憲法二五条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と、生存権を定めた。高齢者や障害者の福祉が切り捨てられ、汗水流して働いても生活保護水準、貧困ラインを抜け出せない人々がいるのは、大きな人権侵害であると指摘したい。

 世界を見渡せば、医療福祉が整備され、格差の小さな国は、社会経済も安定し、国民の幸福度も高い。日本がこのまま福祉や年金、医療を崩壊させ、働く貧困層を拡大させたらどうなるか。社会はすさみ、経済の底力も失われるだろう。選ぶべき道は明らかだ。

 最後に、平和主義の問題だ。名古屋高裁は先月、航空自衛隊によるバグダッドへの多国籍軍武装兵員輸送を憲法九条違反とした。しかし、政府は判決を無視したままだ。なし崩し的な自衛隊の運用、平和主義からの逸脱をこのまま進めていいのだろうか。あすから三日間、千葉市で「9条世界会議」が開催される。憲法九条の世界史的な意義を再確認したい。

 日本人は今、目先の利益や安心に汲々(きゅうきゅう)としているように見える。果敢に難問に挑み、世界に理想や模範を示すという気概を失ってはいないか。日本国憲法は人類の経験と知恵、理想の集積である。この憲法から勇気を得て「名誉ある地位」への努力を進めたい。


東奥日報 社説 バックナンバー http://www.toonippo.co.jp/shasetsu/back_index.html

東奥日報 社説 2008年5月3日(土)

“軽視の風潮”を憂慮する/憲法施行から61年

 作家の半藤一利さんが、雑誌連載の文章を「日本国憲法の二〇〇日」という題の本にするために書き加え始めたのは二〇〇三年三月二十日。米英軍がイラク攻撃を始めた日だった。

 米ブッシュ政権は、自国を攻撃する可能性がある他国を先制攻撃できる、と主張して戦争を始めた。それをいち早く支持した当時の小泉政権を、半藤さんは本の中でこう評している。

 −いまの日本の指導層の頭のなかでは、すでにして「大理想」は空華(くうげ)に化しているのであろう。非命に斃(たお)れた何百万の霊はそれを喜んでいるであろうか−。

 指導層には妄想に見えるのか、と半藤さんが嘆く大理想とは何か。敗戦一年後の一九四六年十月、連合国軍最高司令官マッカーサーと会談した昭和天皇は「戦争抛棄(ほうき)の大理想を掲げた新憲法に日本はどこまでも忠実でありましょう」と話されたそうだ。

 先の戦争で戦死したり空襲などで斃れた国民は約三百万人。日本と戦った国の犠牲は約二千万人に上る。非戦を誓う憲法は、加害で奪い、被害で奪われた多くの命を土台にして、四七年五月三日に施行された。

 六十一年後の今、憲法は古くなったから全部変えるべき、時代に合わないところは改めた方がいい、ますます大切にすべき、といった議論が続いている。

 意見は違って当然だが、このところ憲法に絡む深刻な問題が相次いでいる。悲惨な歴史を背負う重い憲法を軽視する風潮が広がっているようにみえる。憂慮せざるを得ない。

 名古屋高裁は四月、航空自衛隊がイラク・バグダッドに行っている空輸活動は憲法九条に違反すると判断した。だが、防衛省の航空幕僚長は、この違憲判決について「現場で活動中の隊員の心境を代弁すれば『そんなの関係ねえ』という状況だ」と発言した。お笑いタレントの言葉を使い、司法判断をからかった。

 本紙朝刊に連載中の「物言えぬ社会」が伝えるように、憲法二一条が保障する集会や言論・表現の自由を脅かす問題も続いている。

 靖国神社がテーマのドキュメンタリー映画が「反日的」と批判され、一部の右翼団体の抗議行動もあったなどのため、映画館が上映を中止する動きが三月から連鎖的に広がった。

 日教組の集会が二月に開かれる予定の東京のホテルは、右翼団体による集会の妨害行動で客の安全が保てなくなる、周辺にも迷惑がかかる、として会場を貸す契約を一方的に破棄した。貸すよう命じた地裁、高裁の判断にも従わなかった。

 面倒に巻き込まれるのは誰でも嫌だ。ただ、自分の意見と違う相手を強く攻撃して自由に言いにくくする圧力に屈し続けると、集会を開いたり映画を観賞する場を提供しない流れができてしまう。戦前・戦中のようになる。それが怖い。

 小川に石を投げると波紋が広がり、すぐ消える。だが、石は沈んで川の底に残る。一つ、また一つと投げられ続けて底の石が増えると、小川の流れを変えかねない。気づいたときは息苦しい空気が社会を覆って手遅れに。それは杞憂(きゆう)だと言えるかどうか。憲法記念日に考えたい。


新潟日報 社説 http://www.niigata-nippo.co.jp/editorial/index.asp

新潟日報 社説 2008年5月3日(土)

社説
憲法記念日に考える 自由に物が言えますか

 六十一回目の憲法記念日が巡ってきた。昨年のいまごろは、「戦後レジームからの脱却」を掲げ、憲法改正を声高に訴える安倍晋三首相の下で改憲をめぐる論議がかまびすしかった。一年前がうそのような穏やかさである。
 安倍前首相は戦力の不保持を規定した九条を中心に、憲法が「時代にそぐわない」として改正を唱えた。昨年五月十四日には改憲の手続き法である国民投票法が成立した。
 国会や国民の間で議論が尽くされたといえない中、性急に改憲準備を進める前首相の姿勢には危うさがあった。憲法論議が落ち着きを取り戻したことを歓迎したい。

◆息苦しさが忍び寄る

 いま、私たちが優先すべきは憲法を変えることではない。戦後六十年以上を経て、社会の土台のあちらこちらにほころびが見える。憲法を尺度に世の中の揺らぎを自覚し、どう対処するかを考えることこそが求められている。
 文化庁の補助金の在り方について国会議員から注文を付けられた「靖国 YASUKUNI」の上映を中止する映画館が続出した。一流ホテルが右翼団体の妨害による混乱を避けたいと日教組の教研集会を一方的に断った。このところ、憲法二一条が定める「表現の自由」を揺るがす出来事が目立つ。
 旧憲法下では政府による検閲や言論弾圧が横行し、戦争に反対できない風潮を生んだ。二一条はその反省に立って盛り込まれた規定だ。戦後も表現の自由は安泰だったわけではない。権力の圧力をはじめ、直接的な暴力にもさらされてきた。
 こうした状況が一向に改善されないどころか、むしろ陰湿化し根が深くなっているといえないか。「自粛」という名の規制がそれである。
 映画館は多彩な映像作品に接する空間だ。ホテルはさまざまな集会の場として欠かせない。これらの施設がむやみに規制や選別を行えば、表現の自由は保障されない。こんな当たり前の事実があらためて示された。
 顧みたいのは、私たち一人一人も不必要な自己規制にとらわれていないかということだ。数年前、県内の高校が作家の大江健三郎さんに講演で「政治的発言への配慮」を求め、大江さんが辞退したケースはどうだろう。
 職場や学校で不当な扱いを受けても声を上げない。おかしなことを見聞きしても「かかわりたくない」と口をつぐむ。その膨大な積み重ねが「自主規制社会」を招いたのではないか。

◆内向するネット空間

 得体(えたい)の知れない圧迫感が社会を覆っている。その中で、行き過ぎと見えるほど自由な表現を謳(おう)歌(か)している空間もある。インターネットを介したコミュニケーションである。
 ブログに象徴されるように、ネットの登場は個人の情報発信力をその広がりとスピードの面で飛躍的に向上させた。半面、ネット上には身勝手な言葉や情報が際限なくあふれ、歯止めが掛からない状況が続いている。
 「キモイ」「ウザイ」「殺す」。気にくわない人間をやり玉に挙げた書き込みがある。自殺への誘いがある。硫化水素自殺の続発はネットでガスの作り方が紹介されたことがきっかけだ。
 憲法が国民に保障している自由や権利について、一二条は「国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と諭し、さらに「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」と訴える。
 ネットの一部では自主規制の反動のように、内向きで陰湿な感情がむき出しである。生身の人間同士のような気遣いや責任感はない。特定の個人や団体を標的に中傷や悪口が殺到する。
 ネットは、法律が及ばない聖域のようだ。そのため政治の側が有害サイト規制に乗り出す動きもある。表現の自由は他人を傷付けたり、おとしめたりすることまで保障するものではないことを自覚すべきだ。

◆踏みとどまるために

 長野市で北京五輪の聖火リレーが行われた先月二十六日、JR長野駅前に大勢の中国人留学生やチベット支援者らが集まり、主張をぶつけ合った。
 そこでは、チベット亡命政府の旗を持つ日本の青年に、中国の若者が「無責任な行動はやめてほしい」と迫っていた。青年は「これはチベットを支持するという表現だ」と応じた。
 日本をはじめ民主主義諸国での聖火リレーは中国、チベット双方を支援する勢力が対立し、混乱した。それが北朝鮮や中国国内に入ると一気に沈静化した。チベット問題の本質が図らずも浮かび上がったといえよう。
 他者を尊重し、自らの主張を自由に唱える。私たちが享受する表現の自由は憲法の根幹をなす原理だ。過剰な自主規制と暴力的なネット言論がそれを危うくしていないか。
 憲法というフィルターを通して見えるのは社会のゆがみやひずみである。表現の自由が揺らいでいるとしたら、自由そのものが危うくなっているということだ。憲法記念日にあらためてそのことをかみしめたい。

[新潟日報5月3日(土)]


中国新聞 社説 http://www.chugoku-np.co.jp/Syasetu/index.html

中国新聞 社説 2008年5月3日

憲法記念日 じっくり論議深めたい

 日本国憲法はきょう、施行六十一年を迎えた。広島市など各地で集会や講演会、トークイベントなどが予定されている。あらためて憲法について考えたい。

 すっかり静かになったように見える憲法論議である。昨夏の参議院選挙で自民党が大敗。改憲を公約に掲げた安倍晋三前首相が退陣し、その後の福田康夫首相は慎重姿勢をとっているのが大きい。衆参の与野党勢力が逆転した「ねじれ国会」では、改憲は当面の政治課題に隠れ、憲法審査会も休眠状態となっている。

 ただ、改正への手続きを定めた国民投票法は既に成立している。施行は二年後に迫る。改憲論議が沈静化している今こそ、じっくり議論を深めておきたい。

 憲法をめぐって考えさせられることが最近いくつかあった。

 一つはイラク派遣の航空自衛隊の活動について、名古屋高裁が出した違憲判断である。判決の主文ではなかったものの、現状のバグダッドを「戦闘地域」と認定し、空自が多国籍軍の武装兵を輸送しているのは他国の武力行使と一体化した行動であり、憲法九条に違反するとした。

 政府は小泉内閣以来、「非戦闘地域」であることをイラク派遣の法的根拠としてきた。その論拠が崩れれば憲法の枠をはみ出してしまう。「自衛隊が活動している地域は非戦闘地域」という強引な説明を、イラク情勢の変化もあって司法が否定した意味は大きい。

 自衛隊の海外派遣を随時可能にする恒久法制定の動き、安倍前首相が意図した集団的自衛権の解釈変更の問題もある。戦争放棄をうたう憲法前文および九条の理念と合致するのかどうか。いま一度、冷静に考えたい。

 もう一つは、国会の在り方である。「法律案は…両議院で可決したとき法律となる」という五九条が、政権に重くのしかかっている。参院で野党が多数を占める「ねじれ国会」であることから、衆院の三分の二による再議決、「みなし否決」などをめぐって与野党が攻防を繰り広げる。二院制など「統治機構」が、新たな憲法論議の課題にもなってきた。

 知る権利や表現の自由をめぐる問題も浮上した。ドキュメンタリー映画「靖国」の上映を、予定していた映画館が中止した。街宣車が押し掛け、上映中止を迫ったとされる。日教組の集会をめぐっては、都内のホテルが一度引き受けていた会場使用を断った。言論への圧力に、社会が萎縮(いしゅく)すれば人権と民主主義は危うくなる。

 日常の生活ではどうだろう。憲法は「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定める。

 しかし、非正規雇用者やワーキングプアが増加。格差の広がりは、今や深刻な社会問題だ。後期高齢者医療制度(長寿医療制度)は、年金に頼るお年寄りの生活を脅かしているようにも受け止められる。こうした身近なところからも、しっかりと憲法を見つめる目を培うことが欠かせない。


琉球新報 社説 http://ryukyushimpo.jp/news/storytopic-11.html

琉球新報 社説 2008年5月3日

社説
憲法記念日 今こそ理念に輝きを

 きょうは憲法記念日。1947年5月3日の施行から61年を迎えた。この間、憲法は日本の平和と国民の人権を守る砦(とりで)の役目を担ってきた。だが、いま日本は「違憲」の国になりつつある。憲法を取り巻く動きを検証した。
 戦前の大日本帝国(明治)憲法と、戦後の日本国憲法の大きな違いは主権在民。つまり、天皇主権から国民主権への転換だ。新憲法は天皇を国の「象徴」とし、「主権が国民に存する」と宣言した。
 戦前。国民は「天皇の赤子」だった。天皇のために国民は命を賭して国を守り、そのために多くの国民が戦争の犠牲になった。

司法判断無視の政府

 その反省から、憲法前文は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きることのないようにすることを決意」し、第9条は「戦争の放棄」「戦力の不保持」を明記した。
 しかし、現実は自衛隊という紛れもない「軍隊」を保持し、海外に派遣している。
 ことし4月17日、名古屋高裁はイラクに派遣された航空自衛隊の空輸活動が「他国の武力行使と一体化し、憲法9条に違反する」との判断を下した。
 だが、政府は「違憲」判断を事実上無視し、自衛隊の派遣を継続している。
 憲法は国の最高法規で「その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」と、第98条は定めている。
 そして第99条は、大臣や国会議員、公務員らは「憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と明記している。
 法治国家のはずの日本で最高法規の憲法を守らず、従わず、尊重せず、「違憲」行為を重ねる政治が行われている。
 尊重どころか改憲論議も加速している。焦点は常に「9条」で、軍隊の保有が改憲派の主な狙いだ。
 政権与党の自民党は立党50周年を機に2005年11月に新憲法草案をまとめている。
 草案は憲法前文から「国家不戦」の決意を削除。「戦争の放棄」を「安全保障」に変更し、「自衛軍の保持」を明記。国内のみならず国際任務での自衛軍の活動を盛り込んでいる。
 安倍晋三内閣の下で、すでに憲法改正をにらんだ国民投票法を成立させている。
 自民党と連立を組む公明党は、9条を維持しながらも「新たな人権」を盛り込む「加憲」論に立つ。
 野党最大の民主党は改憲、護憲の両勢力が党内で拮抗(きっこう)する中で、自由闊達(かったつ)な憲法論議を是とする「論憲」「創憲」論を展開している。これも突き詰めると「改憲」の流れにある。
 「護憲」勢力の社民党や共産党は、平和憲法の趣旨の徹底を目指す「活憲」論で迎え撃つなど、攻防は水面下で激しさを増している。

護憲のうねりつくろう

 最近の映画「靖国 YASUKUNI」の上映をめぐる動きも憲法論議に発展した。
 文部科学省は国会議員らの要求で、同映画の試写会を行った。試写後、主要シーンの削除や上映禁止を求める動きが議員らから出た。
 憲法は言論の自由、出版など「表現の自由」(第21条)を保障し、検閲を禁じている。「靖国」をめぐる動きは事前検閲や表現の自由を侵害する「違憲」行為にも映る。
 沖縄の現状はどうか。戦後、沖縄が平和憲法の庇護(ひご)の下に入ったのは1972年の本土復帰後だ。
 それまでの米軍統治下の沖縄では国民主権はおろか「自治は神話」とまで言われ、基本的人権は保障されず、多発する米軍犯罪の被害に泣き、銃剣とブルドーザーで家や土地を奪われ、財産権を侵害され続けてきた。
 いま、沖縄は日本に復帰し平和憲法の下にある。それなのに「法の下の平等」に反する米軍基地の過重負担、深夜早朝の爆音被害、実弾演習被害、有害物質の流出や禁止兵器の使用、そして繰り返される米兵犯罪で「平和的生存権」が侵害され続けている。
 条文だけの憲法は役に立たない。尊重し、守り、守らせてこその立憲・法治国家である。
 人権や自治のない米軍統治下で平和憲法を希求し、本土復帰運動を展開した沖縄である。
 失われつつある平和憲法の理念を問い掛け、順守し、実効性を取り戻す運動を沖縄から始めたい。


信濃毎日新聞社 社説・コラム http://www.shinmai.co.jp/news.htm#column

信濃毎日新聞社 社説 2008年5月4日(日)

憲法記念日(下) 表現の自由の曲がり角

 自由にものが言いにくくなっているのではないか。このところ、そのように感じる出来事が相次いでいる。

 靖国神社を扱ったドキュメンタリー映画の一時上映中止。日教組の集会を予定したホテルの一方的な契約破棄。イラク派遣に抗議してビラ入れをした市民への有罪判決…。

 憲法二一条は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定めている。一連の“事件”は、いずれも「表現の自由」を、根元から揺るがすものばかりだ。

 何が壁になっているのか、どうすればいいのか。あらためて考えてみたい。

<国民の自主規制>

 表現の自由をめぐる最近の動きの特徴の一つは、国民の側の自主規制の傾向だ。

 例えば、李(リ)纓(イン)監督による映画「靖国 YASUKUNI」が、上映の危機に陥った問題である。一部政治団体の抗議などを警戒した東京都内の映画館を中心に、中止に踏み切る動きが広がった。

 最終的には各地で公開の運びとなったものの、一時は上映の日程が危ぶまれる事態に陥った。

 日教組の全体集会の会場となったグランドプリンスホテル新高輪(東京都)が、右翼団体の妨害行為などを理由に一方的に契約を破棄したケースと似ている。

 公権力が直接中止を働きかけたわけでもないのに、映画館やホテルが事なかれ主義に走った。

 経緯はどうであれ、「表現の自由」の基盤を国民の手で崩した意味は重い。戦前の言論統制から解放されて60年以上もたったというのに、先行きが危ぶまれる。毅然(きぜん)とした姿勢が求められる。

<警察の姿勢に危うさも>

 映画「靖国」については、背後に国会議員の動きがあったことも見逃せない。

 自民党議員の要請がきっかけとなり、国会議員を対象にした異例の試写会が行われた。議員は、映画の政治的な中立性に疑問を投げ掛け、映画が文化庁所管の日本芸術文化振興会から助成金を得ていることを問題にした。

 議員が税金などの使い道をチェックすることに異論はない。だが、表現や思想にかかわる文化事業の中身に踏み込むことには、慎重であるべきだ。表現活動を萎縮(いしゅく)させる恐れがあるからだ。道路財源の使い道とはわけが違うことを、あらためて確認しておきたい。

 表現の自由をめぐる最近の2つ目の特徴は、政治的な主張を書いたビラ配りなどに、警察の捜査の手が伸びていることだ。

 例えば、2004年に自衛隊のイラク派遣に反対するために自衛隊宿舎内に立ち入った市民団体のメンバーが、住居侵入容疑で逮捕・起訴された。一審は無罪となったものの、高裁、最高裁は有罪と判断している。

 ほかにも、同様のビラ配りなどによる逮捕が目立っている。「住居」に立ち入ったのは事実としても、窃盗などの犯罪が目的ではない。ビラを配るために入った結果である。

 これで逮捕となれば、政治的な活動が制限されるばかりか、市民の知る権利が侵害されかねない。捜査のあり方や司法判断に再考を求めたい。

 「表現の自由」を取り巻く状況が、情報社会が進むにつれて複雑になっている点にも、注意を払う必要がある。

 「表現の自由」は、国民が政治をチェックし、参加を果たしていく重要な“武器”である。そのためには、意見を自由に発信するだけでなく、必要な情報を手に入れなければならない。「表現の自由」と「知る権利」は表裏一体の関係にある。

<対話の回路を>

 マスコミは本来、国民の知る権利を代弁する役割を担っている。戦後の新聞・放送・出版は、国や自治体の問題点を国民に伝え、政治をチェックする機能を曲がりなりにも果たしてきた。

 ところが、近年になってマスコミの取材活動に対し、プライバシーの侵害だとして抗議の声をあげるケースが増えてきた。マスコミ=国民が、ともに権力に立ち向かう図式が崩れてきた、と見ることができる。

 国民の立場にどこまで思いを寄せ、利害を代弁できているか、あらためて振り返る必要性を、われわれ報道現場に働く者は痛感している。

 ただ、マスコミの取材活動が法律によって制限されるようなことがあってはまずい。そうなれば、国民の「知る権利」が著しく後退するからだ。

 先に述べたように、「表現の自由」は国民の自主的な規制の動きと、警察の取り締まりの双方から挟み撃ちに遭っている。ここにさらに、取材活動に足かせをはめられれば、国民が権力の動きに目を光らせることはますます難しくなるだろう。

 マスコミと国民の対話の回路をもっと太くしていきたい。「表現の自由」の将来がかかっている。


それぞれの社説は、各新聞社に帰属します。
社説収集にあたっては、News for the People in Japanの社説リストを利用させてもらいました。
各社の社説へのリンクは、新聞コラム社説リンクを役立たせてもらいました。
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掲載2008年5月22日