【放送芸能】
公権力の関与 軽視できない 映画『靖国』問題シンポ
ドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」(李纓(リイン)監督)の上映をめぐり混乱が続いている。十四日夜には東京都内で、「映画『靖国』と表現の自由を考えるシンポジウム」(日本マスコミ文化情報労組会議、日本ジャーナリスト会議共催)が開かれた。上智大学の田島泰彦教授(メディア法)は、自民党の国会議員など公権力が今回の問題にかかわっていることについて「軽視できない」と指摘。映画監督の森達也さんも「ドキュメンタリー映画にとどまらずメディア全体に関係する問題だ」と強調した。二人の講演者の発言をまとめた。 (小田克也)
民主社会の根幹揺るがす 田島泰彦氏
中身はどうあれ、映画を見たいと思って見られないのは大変なことだ。
民主社会で一番大事なのは情報にアクセスできて、いい悪いを判断できること。その一番大事な部分を閉ざしている。
今回は公権力が「上映させない」ということではない。映画館が、いろんなことをおもんばかっての自粛、自己規制だ。しかし公権力が関与している。その意味で軽視してはいけない。
(自民党の稲田朋美衆院議員の問題提起がきっかけで)映画公開前に議員向けの試写会が行われた。三権の一翼の立法府、しかも与党議員であればそれなりの影響力を持っている。試写会は(上映に)圧力が加わる導火線となった。 これは事前検閲にあたる可能性が強い。こんな試写会をみだりにやらせてはいけない。
公開前に、自民党の議員が出演者に接触したのも危険だ。今後もいろんなケースが許されてしまう。
われわれは自粛、自主規制をどう考えたらいいのか。今回は政治家や行政官庁がかかわり、右翼の抗議を恐れて事態が動いた。(その結果の映画館の上映中止決定は)紛れもない自己検閲。自らが望んで、考えて行った自主規制ではない。
実は個人情報保護法など一連のメディア規制も、法律の中で「自主規制をやりなさい」と奨励している。つまり権力や政府が自主規制を求めているわけだが、それは本当の意味での自立ではない。そこを見ておかないといけない。
『反日』であれ表現は表現 森達也氏
週刊新潮が書いた段階で騒ぎになると思った。新潮が書いて右翼団体が騒ぐのはパターン化している。稲田朋美衆院議員は(作品が)助成金をもらうだけの資格を備えているか確認したかったとのことだが、それなら公開後でもいい。
(都内では封切り予定の4館が上映中止を決めたが)アルゴは、なぜこの劇場を選定したのか。都内で言えば、渋谷のユーロスペースやポレポレ東中野などドキュメンタリーをやる腰の据わった劇場がたくさんある。(中止を決めたのは)娯楽系をやる大手チェーンの映画館ばかり。地方展開を考えたアルゴの戦略だと思うが…。
なぜ騒ぎが大きくなったかといえば、中国人が靖国神社を撮影したからだろう。それが大前提としてある。 どうして「反日」映画だったら、だめなのか。「反日」であれ「抗日」であれ、表現は表現だ。
(刀匠の刈谷直治さんの映像削除問題は)大変な問題。刈谷さんが納得できなかったら上映できないのか。そうなると映画をつぶすのは簡単。ドキュメンタリー映画は現実を切り取る。街や雑踏も映る。たまたま映った人が削除してほしいと言いだしたら映像は撮れない。スタジオを使って役者しか撮れなくなる。
これはドキュメンタリーだけの問題ではない。映像メディア全般の問題だ。ニュースもそうだ。犯行現場に映った人が(削除を)主張したらどうなるか。パンドラの箱を開けたな、という感じがする。
(東京新聞 2008年4月17日 朝刊)
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